雲上四季

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

エンターテイメントに徹するということ

 04月29日に池袋で行った回廊打ち上げオフは、非常に有意義だった。
 基本的に効率が悪いのが嫌いだ。秋山は嫌いという言葉がそう好きではないので、そういった主旨の気持ちを他人に伝えるときは、好きではないという言い方をする。効率が悪いのは、それはもう本当に血液が逆流するぐらい嫌いなので、嫌いだ。
 優柔不断なのもそれほど好きではないし、省略できる箇所を省略しないのもなんだかなと思う。しかし、持って回った言い方や、面倒くさい理論運びに関しては別だ。この文章なんかその典型だ。意味なく長い。効率的か否かを考えれば、明らかに非効率だろう。非効率であることを自覚しているのに、それを助長するような書き方をしているのは、秋山が効率よりもロジックを重視しているから。効率を重視して、中途をすっぱ抜いた文章を書いてもいいが、それでは意味がない。多少、冗長になったとしても、ロジカルに話を進めた方が早い……言わば、急がば回れ。これぐらいでいいか。本題。
 ゲームを作りたくなった。
 実を言うと、昨年の八月に『秋山乱心』を公開した段階で、もう二度とゲームは作らないだろうなと思った。タスクとコミケでゲームを出そうというような話があったが、やつとの口約束で反故にされなかったものはないので、秋山から言い出さない限り、秋山がゲームを作らなくてはならない状況にはならないだろう。そして秋山は自らその状況を作り出さないから、もう絶対に自分はゲームを作らないと思っていた。それが、一体全体どうしてかはまるで判らないが。
 ゲームを作りたくなった。
 いや。なんとなくゲームと言ってみたけれど、別にゲームでなくともいい。とにかく何か作りたいのだ。とりあえずスキル的には、秋山の場合、ゲームか小説の二択だろう。イラストとか脚本とか、そういうのは選択肢にない。
 小説。
 はあ。どうしたものか。……ああ、なんか評論でもいいね。何か資料を漁って、卒論の準備用に軽いのを書いてもいいかもしれない。まあ、作るものは何でもいいのだ。何かを作ってそれが形にできればいいのだ。
 こういった「何か作りたい!」というのは、今までも度々、突発的に生じていた。特に中学校とか高校生の頃は、この衝動に忠実で、ゲーム作りたいと思った瞬間には作りはじめていたし、小説書きたいと思った瞬間には書きはじめていた。
 しかし、作りたいという気持ちだけでは長続きしないのだ。大抵は三日。三日で尽きる、やる気をなくす。既に何度もそういう目にあっているのと、無計画にはじめたやつで結果が良かったことなんて一度もなかったことと、今現在、進行中の企画が幾つかあること(回廊、往復書簡、雲上四季)から、ここのところはそういった衝動はなかった。てっきり、もう二度と来ないのかと思った。しかし来た。だから驚いている。
 まあ、秋山が驚こうが驚くまいが、それは別にどうでもよく。とにかく思考を前へと進めなくてはならない。とは言え、ここでは別に思考を順番通りに進める必要はない。既に抽象的な思考は、今までに幾度となく行ってきた。どうしてゲームなのか、とか。どうして小説なのか、とか。ゲームならばジャンルは何か、とか。その理由はどうしてか、とか。そういうのは、今までにもう充分やってきた。実験もしてきた。それをここで再び繰り返すのは、効率が悪い。ならばどうするのか。省略するのだ。びゅーん。
 エンターテイメントに徹するべきだ。これ、結論。
 秋山は今まで他人に理解されるのが好きではなかった。だからこそ、純文なのか文学なのか、よく判らないものをエンターテイメントに包んで書いてきていた。しかし秋山も今年で二十歳ということで、もうそろそろ遊んでいる場合ではない。いや、別に遊んでもいいし、これからやろうとしていることも数年後に振り返ってみれば「あの頃は、遊んでいたな」と思うかもしれないけれど、それは数年後の秋山が今より広い視野を持てているからだ。視野を広げ、思考を深めるには、物事を多角的に観察し、新しいことに挑戦しなければならない。ならないと言うか、それしか方法を知らないわけで、あるいは他にもっと効率的な道があるのかもしれない。模索してもいいけれど、それは非効率なのでやらない。
 出された答えは、自分を捨てて、エンターテイメントに徹するということ。つまり、仕事のつもりで書くということ。――今までも、仕事のつもりで書いてはいたが、それはあくまで読者に自分のファンを想定してだ。つまり、仕事で書きながらも、自分らしさをその中に盛り込もうとしていたのだ。
 ここで言う自分らしさとは、他人に理解されないことだ。ありえんね。他人に理解される文章を仕事として書きながら、他人に理解されないように自分を交えて書いているわけだ。ありえん。そんな自分、掃いて捨てちまえ。
 そうは言うが、実際に自分を消し去ってしまうことはできない。ここらへん、回廊打ち上げオフでポーンさんと話をした。秋山は『回廊』に掲載された「神殺しの三段論法」を、仕事として書かれたものだとして捉えた。そのことをポーンさんに言うと、ポーンさんは「瑶さんが『回廊』を仕事としてやっているように見えたので、自分も仕事として書いたのです。しかし結果として自分が多少出てしまいました」と返した。
 書いてみれば判ると思うが、自分を消し去ってしまうことなんてことは、多分、できない。『回廊』で匿名リレー小説を書いている謎覆面Aも闇仮面Bも秋山の視点から見れば、自分を出しまくってる。きっと……あれ、ええと、何だっけ。言葉が出てこない。影の代筆者と言うか、坂本ジュリエッタの職業……ええと、ゴーストライターだっけ? 彼らでさえも自分を消し去ることはできないだろう。
 つまり、自分なんてものは、出そうとしようがしまいが、滲み出てしまうものではないのかと思う。だから無理に出そうとして、出しすぎてしまうよりかは、出さないようにして、小出しにする方が結果としていいこともある。そして秋山の場合、出さないようにした方がいいだろう。とまあ、そういうこと。
 多分、秋山はエンターテイメント向きではないのだ。少し、純文っぽいのを読めば、そっち方面でいいのが書けるかもしれない。書けないかもしれない。書けるようになれば嬉しい。でも、できればエンターテイメントを書けるようになりたい。何故って、儲かるから。
 そうなのだ。金のためなのだ。金のためにエンターテイメントが書きたくて、そのために自分を捨てるなんて、人によってはくだらないと思うかもしれない。でも秋山からすれば、そんな思考の方がくだらない。くだらないと言うか、甘えている。秋山だって、自分をカットせずにエンターテイメントが書けたらいいと思うが、それでは届かないのだ。すでに幾度となく思考と実験を繰り返していて、失敗だけが屍のように積み重なっている。その屍を前に、それでも自分を捨てるという選択肢を選ばないほど、秋山は強くないし、エンターテイメントに対する熱意も持っていない。と言うよりも、
 ある程度、思考を進めた段階で、エンターテイメントとは自分を捨てることに、他ならないのではないのかと考え至った。
 あるいは、自分を残したものを純文と言うのかもしれない。
 どうだろうか。
 エンターテイメントと純文を区別するのは、自分――作者性の有無ではないだろうか。
 例えば秋山は、上遠野浩平の『ブギーポップは笑わない』が、ヤングアダルトからライトノベルへの転機となった作品だと思っている。『ブギーポップ』以前は、画一的なファンタジィ・冒険物・学園物が主流だった。代表を挙げるならば、水野良の『ロードス島戦記』や、深沢美潮の『フォーチュン・クエスト』といった角川スニーカー作品、神坂一の『スレイヤーズ!』や、秋田禎信の『魔術師オーフェン』や、あかほりさとるの色々といった富士見ファンタジア作品だろう。対して『ブギーポップ』以降は、良く言えば個性的、悪く言えばアクの強い作品が多い。佐藤心が言うところの現代ファンタジィ、笠井潔が言うところの脱格系、俗に言うセカイ系、『Kanon』や『新世紀エヴァンゲリオン』に影響を受けたような作品、電撃文庫っぽい作品、等々。
 この『ブギーポップ』以前と以降を別けるものこそ、作者性の有無ではないだろうか。自分を捨てるのではなく、むしろ強く前に打ち出しているような作品。『ブギーポップ』の登場人物は悩みまくっているし、『エヴァ』の主人公は自己嫌悪しまくっている。従来のヤングアダルト作品には、見られなかった作者の存在が見てとれる。
 さて。例を出して『ブギーポップ』の以前と以降を比較してみたが、何もエンターテイメント的作品が『ブギーポップ』以前にしかなく、純文的作品が『ブギーポップ』以降にしかないと言っているのではない。それは幾らなんでも乱暴すぎだし、そもそも上に例には秋山の恣意が入りまくり。
 ここらへんは定義の問題だろう。確かにエンターテイメントと純文とを、作者性の有無で別けてしまえば、上のように『ブギーポップ』以前と以降とで別けれてしまえるような気がしないでもないが、実際にこの定義はもっと複雑だし、大半を納得できる定義なんてない。しかし仮にこの定義だけでエンターテイメントと純文が別けれてしまえるとしたら、『ブギーポップは笑わない』やシリーズ三作目の『パンドラ』は、わりと純文ではないだろうか。
 ライトノベルの話はこれぐらいでいいだろう。よく考えたら、エンターテイメントと純文で話をするのなら、上遠野浩平より舞城王太郎でした方が良かった気がしないでもない。まあ、舞城はどちらかと言うと危険だしな、下手に触ったら暴発しかねん。
 閑話休題。秋山の徹したいエンターテイメントは、『ブギーポップ』以前にも以降にもあるものだ。今まで秋山は、エンターテイメントという言葉を、特に定義もせずに、適当かつ安易に使っていた。「自分を消したもの=誰でも書けるもの」と言うようなことを言いはしたが、それ以外にはしていない。ならば、実際のところ、どーなのよ?
 エンターテイメントとは展開と見た目である。

 王様が勇者に竜退治を命じ、見事に竜をやっつけた勇者がお姫様と結婚する。

 この通り、誰にでも書ける。
 そして、結末に納得できる。
 この工程を堅実に組み立てれば、読者は勇者の傍に立って支援する女魔法使いや女僧侶に萌えるかもしれないし、竜と相対する勇者を格好いいと思うかもしれない。思うに、この工程に自分=作者性を入れたのが『ブギーポップ』以降なのではないだろうか。

 世界の敵がやってきました、倒しました。
 使徒がやってきました、倒しました。

 この通り、根幹に目を向ければ、『ブギーポップ』も『エヴァ』も、竜退治とそれほど変わらない。とは言え、そうは問屋が卸さない。上の例では、展開しかフォローしておらず、見てくれが最悪だ。今時、竜退治なんてありえん。では、どうするか。

 王様が女子高生を召喚し竜退治を命じ、見事に竜をやっつけた女子高生は元の世界に戻る。

 どーよ。この一工夫によって面白さが格段に上がったような気がするのは秋山だけかい。
 実際、ブギーポップがあんなみょうちきりんな格好と左右非対称の笑いをしなかったり、シンジ君がガタイのいいスポーツマンだったら、かなり駄目だろう。読者を惹きつける見た目は大事だ、そして読者を納得させる展開も大事だ。異世界に召喚された女子高生が受験生で勉強しないといけないのに彼氏との関係が悪化していて友人と三角関係で両親と喧嘩して家を飛びだして誰もいない駅のホームで延々と独り言呟いたりそこに最近赴任した男の先生がやってきて何だか妙に格好よく見えてしまってときめいてしまったり、そういった作者性はついでで構わない。や、本当は、ついでじゃ駄目なんだが、秋山の場合、そこまで一足飛びに行けないから、ステップ・バイ・ステップということで、まずは展開と見た目――形式だけを意識してやろうと思う。何を?
 ゲームか、
 小説を。
 そんな感じで。近々、この思考を実証すべく実験に入ります。
 まあ、仮に途中で飽きてしまったとしても、次に何か作りたくなったとき、ここまで思考を省略できるしね。今後もこんな感じで、確実に前へと進んでいく。それが秋山のスタイルだ。にゃー!