雲上四季

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

創作における技術とは何か?

 まあともかく、編集長的には推敲と校正は果たして技術のうちに入るのでしょうか。それだけ気になります。

 技術、技巧、テクニック……まあ、言葉は何でもいいのですが、ここでは技術で統一しましょうか。
 秋山が思うに、コミュニケーションすることを前提とした創作は、主に、伝える中身と、それを実際に伝える技術とで構成されています。具体的に言うと、たとえば「愛は素晴らしい」というメッセージを伝えたいとします。けれど「愛は素晴らしい」とだけ言っても、愛がどういったものであり、それがいかに素晴らしいかは分からないので、物語を構築したり、登場人物の口を借りたり、色々します。
 さて、世には、より優れた文章を書くための指南書や、指針となる作法がありますが、その手の本で説明されているのは、うえで言うところの技術に相当すると思います。つまり、どう書けば上手くなるかは教えてくれても、なにを書けばいいかは教えてくれません。まあ、でも、それは当たり前のことですよね。
 ところで、創作を志すひとのなかで、この手の本を参考にすることで、より上手く文章を書くことはできるようになっても、伝えたい中身を持ち合わせていないひとが散見されます。秋山は別段、そういったひとを間違っているとは思いません。むしろ、それもひとつの創作のかたちだと思います。いかに上手く書くかは、ときに伝えたい中身そのものより重視されることがあります。
 ちょっと料理を例にして説明してみましょうか。伝えたい中身を持っているひとは、肉や野菜といったより多くの素材を持っていて、技術は長けていても伝えたいものを持っていないひとは、鉄人レベルの調理力は持っていても素材を卵しか持っていない……という感じです。
 で、技術は勉強すれば後からいくらでも鍛えられますが、中身というのは、そうでもないのではと思います。したがってより時を注ぐべきは、技術力の育成ではなく、中身の研鑽なのではないかな、と。ただ、これには例外があって、また料理で説明しますけれど、なんの料理を作るか決めずに包丁捌きを訓練するのは勿体ないですが、刺し身を作るという前提で包丁捌きを訓練するのは有意義だと思います。つまり、技術のために技術を訓練するのではなく、中身のために技術を訓練した方がいいのでは、ということです。


 ここで話を一気に現実レベルに落として、id:issaiさんの文章を見てみたいと思います。

 雨の雫の一つ一つが、天地に舞う二つの影に怯えるように震えながら落ちていく。この世にあるはずのない、死者の騎士と、その戦いに関わるのを忌避するように、あるいはその殺気と闘気にあてられ凍りついたように、鳴りを潜めて速やかに地面へと到達していった。
 だが、それでもなお数の力は気を大きくし、全体としては雨の勢いも音も、一向に止む気配がない。
 そして雨の中。マサク・マヴディルとトゥバルカインは軸受けを越え、トラス状に組まれたパイプを足場に変えて、たちまちゴンドラを吊るすリムへ。一周十三分ほどとされる観覧車のてっ辺に、両者はものの数分で辿り着き、対峙する。向き合って先制を取ったのは果たしてどちらだっただろうか。

http://magazine.kairou.com/14/novel/kanki.html

 これはissaiさんがわりと自信があるらしい、つまり読者に伝わったであろうと自信を持っているらしいシーンなのですが、秋山はあまりそうは思いませんでした。もちろん、分かりにくいと思ったのは秋山という一読者の主観なので、多くの読者はissaiさんと同じく分かりやすいと思うかもしれません。けれど、そういうのを鑑みて、より客観的に読み込もうとしても、やはりここは分かりづらいように感じました。一応、マサク・マヴディルとトゥバルカインという、ふたりの人物が雨の中、観覧車の上の方で向き合っているというのは分かりますが、それ以外はさっぱり分かりません。ちなみに、実際にここがどういう場景なのか問うてみたところ、issaiさん自身も説明することができませんでした。
 で、秋山の主張というのは、前述の通り、技術のために技術を訓練するよりも、中身のために技術を訓練するべきというものであり、issaiさんの脳裏にある風景を、読者にとって分かりやすいかたちで提示するというのは、実際に求められる技術です。したがって、推敲と校正は技術に含まれますが、それは必要な技術と言えます。