雲上四季

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

夏目陽さんへ、第4信

 前略。
 話題の幅を広げつつ、深い議論を試みたくなった場合は足を止める件について。賛成です。
 しかし、夏目さんの口から「これも文学だと思うんだけど、どう思う?」という言葉が出てきたことには驚きました。恐らく意図的だとは思いますが、夏目さんは既成の事実から思考を発展させたり、評論やエッセイの引用を繰り返すばかりで、おおよそご自身の意見や主張を表明することはしませんでした*1。だから、ここに来て、ようやく誰の言葉でもなく、夏目さんの言葉が聞けると思うと、ちょっとわくわくします。無作為な引用をやめれば、無作為な言語選択もなくなりますから、個人的にも助かりますし。

文学観について

「再び、文学は文字で表現できるのか? その1」と「再び、文学は文字で表現できるのか? その2」には、あまり興味を見いだせなかったので、足を止めずに流したいところですが、ただ単にスルーするのも失礼なので、興味を抱けない理由をかんたんに記します。

 今までの文学は書かれたもの(言い換えれば活字であること)に縛られてきた。しかし、近年の動きを見て、この書かれたものというのは不必要なのではないか。

http://d.hatena.ne.jp/natume_yo/20080905/1220623606

 と、夏目さんは仰っていますが、まず、文学が「書かれたもの(言い換えれば活字であること)に縛られてきた」と定義しているのは文学に対して狭量な人間だけであり、方法論を必要とするのも彼らだけです。プロレスも文学の範疇に含められる秋山にとって、その方法論は無用になります。また、百歩譲って、文学が「書かれたもの」でなければならないと仮定しても、アヴァン・ポップというかたちで、百年ほど前から実現されています。以上の理由から、上のような問題提起に始まる、この議論には、申し訳ないですが興味を見いだせません。
 とは言え、夏目さんの言う「近年の動き」というのが、実はここ数十年から数百年の話という可能性もありますし、何よりも文学が「書かれたもの(言い換えれば活字であること)に縛られてきた」と仮定しての議論は有意義である可能性があるので、その場合は別途、申し出ていただきたく。

文学の価値、文学の伝達力

 日本語を母国語だと安易に言い切っているあたりに鳥肌が立ちましたが、さておき。
 確認になりますが、

 私にとっての文学とは以上のような(これはほんの一例ですが)言語の力を最大限に駆使して、自らの問題に取り組んでいくだと考えています。自らの問題は時として、自己言及を越え、社会に結びつく可能性もあります。
 何かの問題に取り組むことならば、この世界に存在するいかなる表現方法でも可能だと思います。しかし、文学でそれに取り組むということは、その特性、つまり言葉によって書かれているという点に注目せざる得ないと思います。

http://d.hatena.ne.jp/natume_yo/20080807/1218035447

 以上が夏目さんにとっての文学であったはずです。
 それが、第4信では、

 文学は誰に届くべきなのか? 結論から先に述べれば、文学は一部の高い教養を持った読者だけに届けばいいと考えています。

http://d.hatena.ne.jp/natume_yo/20080905/1220623606

 高いとはどの程度なのか?
 私はその作品を読んで、文学的試みを理解出来るかどうかだと考えています。上記の話で言うならば、文字の物質性や概念性、あるいは別路線で行くなら、音声との対概念であることなどなどが理解でき、ほかのものにも応用できる程度の能力だと考えています。

http://d.hatena.ne.jp/natume_yo/20080905/1220623606

 となっていて、少し驚きました。
 もし、仮に、仮にではありますが、言語のちからを最大限に駆使することが可能であり、さらに実際に駆使できたならば、受け手の教養に関係なく、意見や主張は伝達されるのではないでしょうか。
 また、夏目さんが「言語の力」をどういう意味で用いているのか疑問に思いました。また「理解出来る」という表現も引っかかりました。秋山は誰かが誰かに何かを言って、その真意が完全に「理解出来る」ことなんてありえないと考えていますが、夏目さんは「理解」が可能だと思っているのでしょうか。その場合、どういう基準を満たせば「理解出来」たとなるのかも伺いたく。
 なんだか重箱の隅を突くようですが、他に気になった点を、ふたつほど指摘したいと思います。

 こういったことから文学の役割を考えた時、私は一部の高い教養を持った人々に届けばよいという結論に至りました。

http://d.hatena.ne.jp/natume_yo/20080905/1220623606

 文学の役割って何でしょう?
 そんなもの存在しうるのでしょうか?

 そもそも、文学が万人のためである流れは一体、どこから来たのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/natume_yo/20080905/1220623606

 そんな流れ、どこにあるのでしょうか?
 秋山には、文学が「思弁的なもの、あるいは概念的なものを取り入れにくい環境」にあり、さらに「文学が万人に届かねばならないという幻想」に囚われているのは、他でもない夏目さん自身であるように思えて仕方ありません。

何個かのボール

 さて。
「これも文学だと思うんだけど、どう思う?」と言うわけで、何個かボールを投げてみたいと思います。
 ひとつ目は短い作品について。以前、夏目さんと超短編の話をした際に「超短編は短いから駄目だ」という意見を伺ったように記憶しています。確か、その理由が「ある程度の長さがないと、読者を感動させられないから」だったと思います。超短編、300文字小説、短歌、俳句、川柳……こういった短い作品に、夏目さんはまだ感動されたことがありませんでしょうか。また、短い作品は文学なりえますでしょうか。
 ふたつ目は逆に長い作品について。たとえば全力で自らの問題に取り組むのに当たり、質ではなく量が問われるとき、いったいどれぐらいの分量があれば長い作品ということになるのでしょうか。たとえば原稿用紙にして10枚あればいいのか、100枚あればいいのか、1000枚はないと駄目なのか、もしくはそれ以上なのか。
 みっつ目はゲームについて。なんとなく夏目さんの文章を読んでいると、夏目さんの想定されている文学や小説は、本という形態を取っている気配を感じますが、ノベルゲームなどはどうなのでしょうか。もしくは携帯電話で読む小説や、ニンテンドーDSで読む小説。
 ボールを投げるだけと言うのも何なので、秋山も一応、答えておきます。まず、短い作品も文学になりえます。次に、質も量も大事ではありません。最後に、ノベルゲームその他に文学を見いだすことも可能です。

最後に

 以前にも申し上げさせて頂きました通り、鉤括弧を、引用や異議語の区別化以外の用途で用いるのは、ご遠慮頂ければ幸いに存じます。夏目さんご自身の考えられる文学を「文学」と、それ以外の文学は、ただの文学として頂きたく申し上げます。

*1:第3信における「私の文学」は除きます。