雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜

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強いられた行動が能動的ではないという考え方で生きる


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 國分功一郎の『中動態の世界 意志と責任の考古学』を読みました。
 能動態でも受動態でもない、第3の態に関する本です。

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 中動態とは何か?
 あんまり興味を持てないまま、着手したのですが、冒頭のある一箇所を読み、得心しました。

 授業中に学生がうとうと居眠りしていれば、教師はそのことを叱責する。だが、詳しく問いただしたところ、その学生がたとえば、「実は交通事故で両親を亡くして、幼い妹と弟のために毎晩アルバイトをしているんです。だからなかなか十分な睡眠がとれなくて、授業中なのに居眠りしてしまいました。すみません……」と事情を説明しはじめたらどうだろうか。教師はおそらく叱責したことを後悔するだろう。それどころか「そうか、身体に気をつけろよ」などと励ましの言葉すらかけるかもしれない。
 授業中に居眠りをしていたという行為そのものは変わらない。なのになぜ、教師の対応は突如正反対のものになり、また、われわれもその変化に納得するのだろうか?
(中略)
 毎晩アルバイトをしていた彼は、自分の意志で自由に選択する状況になかったと見なされたがゆえに、叱責の対象から外されたのである。
(中略)
 彼は睡眠時間を削ることを強いられる受動的な状態にあると判断された。それゆえに、責任を負わされず、叱責の対象から外されたのだ。

 これだけ、丁寧に繰り返してもらえると、さすがに理解が浸透しますよね。
 なるほどと膝を打ちました。
 そして、直後に慄然としました、

 たとえばアルコール依存症の場合ならどうであろうか? アルコール依存に陥ったことの責任は本人にあるのだろうか?
(中略)
 たとえばここで、殺人や性犯罪など、他人を直接に害する行為に話が及んだらどうか?

 居眠りくらいなら、まあ、理解を示せます。
 やむを得ない事情によって睡眠時間が削られ、居眠りをしてしまったのだろう。分かります。
 アルコールは、秋山はアルコールを飲むから、まだ分かります。確かに、日常生活がしんどいときに、アルコールに逃げたい気持ちはあります。寝ても覚めても苦しい仕事のことを考えてしまうので、一時だけでも精神的に落ち着くためにアルコールを飲むことは、ないわけではありません。
 でも、殺人、性犯罪となると話は別です。
 しかし、ほんとうに別なのでしょうか。
 本書は、ここを出発点に、中動態という概念を提唱し、実は、この考え方が、古代ギリシアの時代からあったことをつまびらかにし、さらに、歴史とともに、この考え方が、どう推移してきてかを丁寧に解説してくれています


 理解度、という観点では1割にも及ばないでしょう。
 イメージとしては、大学の講義で用いるような本なのです。事前に一章ずつ読み進め、一週間ごとに教授の解説をつけて振り返りたい。それくらいの重さの本でした。
 しかし、残念ながら、本書は、講義の課題図書ではありませんし、そもそも秋山が学生だったのは10年も前のことです。勉強しようと思ったら、自分で「理解したい!」という気持ちで読むしかありません。
 そして、一言一句、理解して読もうとするより、得てして「まずは、読む」ことが大事であることが往々にしてあります。まずは、その本の形を知ることです。どういう順序で、どういうことについて書かれているのか。その概要を掴んでから、ゆっくりと再読して、理解を深めれば良いのです。
 そんなわけで、わけも分からず、とりあえず読みました。


 そうして、261ページまで読み進めた結果、思わず本を取り落としそうになるくらいの衝撃を受けました。

 人は常に刺激を受け取り、そして行為している。スピノザはそれを変状の理論で説明した。すでに述べたように、スピノザの考える能動と受動はこの変状の質としてある。スピノザは能動と受動を行為の方向性として捉える一般的な考え方を斥け、行為として現れた変状の質をその代わりに置いた。
(中略)
 だが、「能動」と「受動」の区別の不適切さを強調してきたわれわれとしては、それらがどれほど一般的な意味とは異なる仕方で定義されているにせよ、どこかこれらの用語に居心地の悪さを感じる。これらの言葉を言い換えたいという気持ちを抑えることは難しい。
 実のところ、スピノザ哲学にはそれらを言い換える別の言葉がある。というか、これらの言葉は『エチカ』において最終的にそこに帰着する。それは『エチカ』の全篇を通じてスピノザが追い求めてきたもの、すなわち「自由」であり、その自由の対義語としての「強制」に他ならない。

 自由……!
 そして、強制……!


 これは、すごいことです。
 だって、この本は、ずっと能動態と受動態、そして、その狭間や外側をさまよう中動態を追い続けていたはずなのです。
 しかし、そこに来ての自由です。
 中動態を認める生き方は、すなわち自由に生きるという生き方であり、誰かに自身の行為を強制される生き方をするということなのです


 いやあ、参りました。


 まさか、こんな地点に着地するとは。
 同時に思い出しました。
 と言うか、どうして今の今まで忘れていたのか、うかつとしか言いようがないのですが、そもそも本書を読み始めたキッカケは、以下の記事にあります。

 自分の人生とは何か? について考えていた秋山に対して、Twitterでカズマさんが本書を教えてくださったのです。いやあ、中盤までアリストテレスとかデリダとかハイデッカーとかだったので、すっかり忘れていました。


 と言うわけで、途中にも書きましたが、まずは、ざっと読もうと思ったので、理解度は1割くらいです。しかし、その程度の理解度でも、非常に感銘を受けました。
 おそらく、本書を読み返すだけで、本書を理解できるとは限らない気がするので、また、何冊か哲学や倫理を勉強し直してから、いずれ戻ってきたいと思います。
 今日のところは、ここまで!