ここに世界の片鱗がある。
読んでいる間、身体は震えるし、歯はガチガチ鳴るし、とにかく興奮して大変だった。興奮すると同時に、今まで秋山が持っていた数学や、数学者という概念が音を立てて崩れていくのを聞いた。誤解が正されるたび、秋山が持っていた数学という概念が、それをあまりに過小に評価していたことを知った。中学高校で教えてくれる数学は、その世界の入口の入口の入口に過ぎない。
紀元前1700年代に楔形文字で書かれた粘土板を見たときは、文字通り驚愕した。そこに書かれている数式を、理解することができなかったのだ。3700年も前に作られた数学が、こんなにも難解だとは……。
原著が出版されたのは1980年、日本語版が出版されたのは1986年、フェルマーの最終定理に決着がつくのは1994年。また、この本には「一年に20万個の新しい定理が発見されている」とある。原著が出版されてから24年。フェルマーの最終定理は証明され、480万近い新しい定理が発見されたのだろう。現在、この一冊が数学史においてどこに位置するかは知らないが、数学を志す上で外すことのできない学術書であることは、確かだろう。
実を言うと、秋山は本書を読破していない。元よりテクニカルタームはさっぱり判らない。プラトンがアカデメイアを創設する上で、哲学を勉強したい者に幾何学を学ばせたという事実や、ピタゴラス・ユークリッド・アルキメデス・ニュートン・リーマンといった偉大な学者の名前は知っているが、それらが具体的にどのような意味を持ち、どのような発見をしたのかを知らない。しかし、そんなことは知らなくとも本は読める。英語と同じだ、知らない言葉が出てきたら辞書を引いたり、前後の文脈から意味を類推したらいい。それを日本語でやるのだ、容易い。容易い、しかし勿体無い。
漫画なら最新刊から逆に読んでいってしまう秋山だが、小説では新しい作家の本を読みたいと思ったとき、必ずデビュー作を一番に取る。デビュー作を読み、その後に続く作品を順々に読んでいって、作風が変わっていくのや、その作家の自信作をそれまでの集大成として読むのが好きだ。同じように、数学にうとい今の状態において、本書を最後まで読みきってしまうことは、とても勿体無いことに思えた。
まだ半分弱、取っておいてある。既に数学の片鱗は知った、それが面白いことも脳に刻んだ、そしてそれをさらに楽しく面白く読むために努力を惜しむ必要がないとも感じた。その後は簡単だ。いつか未来において、今よりもさらにもっと楽しむために、秋山は本書を読むのを止める。結論を下し、本を閉じた。
以上。続きはいずれ。