雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

乙一『ZOO』

 短編集にはよく枕詞として「珠玉の」という言葉が用いられる。もちろん誉め言葉で、意味は、優れているだの、素晴らしいだのだ。短編好きの秋山は、「珠玉の短編集!」なんて宣伝文句が踊っている帯を見かけると、つい手にとってしまったりする。ちなみに珠玉は「しゅぎょく」と読む。
 乙一という作家についてひととおり説明しておこう。彼は17歳で第6回ジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞しデビューした若い作家で、デビュー直後は集英社の若者向けレーベルで短編を書き、その後、角川の同じく若者向けレーベルで短編を書き、気がついたらこのミス2位だったり、第3回本格ミステリ大賞を受賞していたりした。その他に最近では絵本の原作を書いて人気を博したり、作品の映画化も進んでいるようだ。
 彼の作品には、短編が圧倒的に多く、長編・中編は数えるほどしかない。繰り返すが秋山は短編好きで、その短編が評価されている*1乙一は好きな作家だ。彼が「虐め、健気、孤立」といった若者受けする作風を持っていることも、関係あるだろう。
 今日、紹介するのは2003年06月に刊行された『ZOO』という本で、主に「小説すばる」に掲載された短編を一冊にまとめあげたものだ。ちなみに十篇、収録されている。その中には1998年に書かれたものもあれば、2002年に書かれたものもある。掲載年の書かれてないものや、書き下ろしは2003年に書かれたかもしれない。この一冊の中には、乙一が五年分詰まっていると言い換えてもいいだろう。
 レビューに差し掛かる前に、記しておくことがある。このレビューは、第3回クロスレビューリレー:読書参加作品である。秋山以外のレビューも気になる人は、書評Wikkiと併せてご利用いただきたい。


 乙一のことは嫌いではないが、熱狂的なファンではない。したがって今現在の彼がどのような評価を受けているかは知らない。あるいは紋切り型な解説になってしまうかもしれないが、一応述べておこう。
 乙一はホラーやミステリの色合いが強い作品でデビューし、デビュー直後はそういった作品を多く書いた。しかしあるときより愛おしさや切なさを感じる、読み手に涙を誘う作品を書き始めた。その後、彼はふたつの作風を自在に操り、その作品は黒乙一・白乙一と区別されるようになった。
 秋山はどちらかと言うと白乙一と称される作風の方が好きだ。デビュー作の『夏と花火と私の死体』や、出世作となった『GOTH リストカット事件』は、それほど好きではない。確かに上手いとは思う。描写は丁寧だし、意外性もある。しかし、上手い作品が読みたいのであれば、なにも乙一を読む必要はなく、もっと洗練されていて、唸るような作品はあるだろう。
『平面いぬ。』*2に収録された「BLUE」、『さみしさの周波数』に収録された「失はれた物語」、書き下ろし中編の『暗いところで待ち合わせ』などが好きだ。――この三作品に共通するのは、いずれも白乙一作品であることと、「はじめから泣けることが判っている」作品だろうか。特に「BLUE」は一ページ目から「うわ! これはラストで泣くぞ泣くぞ、絶対に泣くぞ」と思わせて、そう来ると判っているのにガードを下げてしまい、泣いてしまうという、かなり反則的な作品だ。もう好きなんだか、嫌いなんだか、訳が判らない。


 さて。
 前振りが長くなったが、『ZOO』の話をしよう。
 このレビューを書く前に、“乙一 ZOO”でググった上に、書評Wikkiを使って他人の書いた感想に目を通した。目立った意見としては、

・「乙一はやはり天才だ」
・「どうしたらこんな物語を思いつくんだろう」
・『陽だまりの詩』と『SEVEN ROOMS』を推している人が多い。*3

 などである。
 面白いと思ったのは、否定的意見が少なかったこと。まあ、1500円もするハードカバーを買うような人間で、かつネットに感想を書こうと思い至る人は、乙一の好意的ファンだろうと思われるが、それでも誉めている人が多かったという印象を持った。
 その理由として秋山が思ったのは、ジャンルが豊富であることだ。黒乙一的なもの、白乙一的なもの、ミステリ、ホラー、ファンタジー、SF、とにかく多様なのだ。十篇も収録されているのに、その殆どが被っていない。ただ被っていないだけでない、雰囲気まで違うのだ。
 雰囲気が異なるというのは、たいした問題ではないようだが、短編集を作る上では重要な問題だと考えている。例えば、ある作家がある時期に集中的に書いた短編集であれば、収録されているもののテーマや作風は似たり寄ったりになってしまい、互いに互いを殺す短編集となってしまう。しかしそういった画一的均一的作用が、この短編集においてはまったく働いていない。
 例えば、収録されている一篇目は、不当な虐めを受けている少女が主人公で、典型的な乙一作品だ。まず読者はこれを読み「ああ、乙一だ」と安心すると同時に、ヘビーな物語があと九つも続くのかと少し力む。しかし次の一篇では、長男の名前が「ナガヲ」、次男の名前が「ツグヲ」、妻の名前が「ツマ子」なんていうギャグワールドが展開される。ここで読者は「あれ? なんか様子が違うぞ」と思いつつも肩の力を抜き、その後に『陽だまりの詩』を読む。上にも挙げたが『陽だまりの詩』は、人気の高い作品で、そのレベルも高い。二作目で肩の力を抜き、ガードを下げてしまった読者に、この作品が持つ一撃は重く鋭いだろう。
 さすが五年越しの一冊だと言いたい。一篇読み終えるたびに程よい充実感があり、次の一篇を読み始めると、それまでとはまったく異なる、新たな世界が自分の中に構築されていくのだ。作品自体も素晴らしいが、作戦もまた素晴らしい。ひょっとしたら収録されている十篇の中には、単体で読んだとき、それほど面白くないのも混じっているのかもしれない。しかし収録されている順番や、五年という歳月の重みが、読者にそれを感じさせず、結果として不平不満を出にくい作品に昇華させている。素晴らしい作戦だ。
 さらに付け加えるならば、初期の乙一作品に比べ広がりのある作品になっている。と言うのも、以前であれば「この三人の中の誰かが犯人だ」という程度の展開だったのが、「この十人の中の誰かが犯人だ」と、範囲が広がっているのだ。秋山は読みながらその後の展開や結末を考えていくのだが、かつての乙一作品がある程度読んだところで、漠然と読めてしまうか、「候補の三人以外に犯人がいた」のに対し、今回は最後の最後まで、絞り込むことができずに楽しめた。――作者に上を行かれた、そういう感覚は嫌いじゃない。


 秋山がレビューを書くとき、あるいは書こうと思い至ったとき、
・既に誰かが書いている感想は書いてもいいが、書かなくてもいい。
・読む人間が求めるものを書こう。
 以上の二点を念頭に置いている。
 秋山が作品を誉め倒す人間であろうと、貶し倒す人間であろうと、誉めるところは誉め貶すところは貶す人間であろうと、どちらも他人に任せる人間であろうと、特異な視点から切り込み他とは異なる感想を書く人間であろうと、未読の人間で購入を決意させるレビューを書く人間であろうと、実のところあまり関係ない。
 重要なのは、レビューを書いている人間でも、書かれた人間でもなく、レビューを読んだ人間がどう思うかに他ならない。
 以上を踏まえた上で、もう少し切り込んでみるとするならば、『ZOO』はやや物足らなかった。
 前述したように、秋山が乙一に求めているのは、上手さではない。上手い小説を書く人間ならば、他に多くいるからだ。特に秋山は大作家の書く小説を忌避する傾向にあり、島田荘司ではなく清涼院流水を読み、笠井潔ではなく西尾維新を読む。これは統計的な傾向であり、ポリシーでも何でもないから、破るのは簡単だが、それでもなんとなく――なんとなく避けてしまう。
 まあ、こういった性格の持ち主であるから、上手い小説で、かつ未読のものは大量にある。あるいは、そういった本を読むのが勿体無いから、そうでない本ばかり読んでいるのかもしれない。だとしたら、秋山が『ZOO』に対して感じた物足りなさは、裏を返せば、乙一はもはや大作家と形容していいぐらいに面白かった、という感情なのかもしれない。
 話を戻そう。
 今回『ZOO』に収録された作品の中で、秋山が乙一作品の中で一番泣いた「BLUE」、そして一番気に入っている「はじめ」のレコードを塗り替えるものはなかった。「落ちる飛行機の中で」と「SEVEN ROOMS」は、かなり気に入ったが、それでも格別というほどではない。「カザリとヨーコ」と「血液を探せ!」も好きな部類に入るが、それだけだ。
 つまり、一冊の作品である短編集として見たときは、間違いなく傑作の、それこそ「珠玉の」とつけて構わない素晴らしい本になる。しかし「面白いのはありましたか?」と聞かれたとき挙げる作品は「この中だったら」と付け加えなければならない程度のものだ。
 何事にも個人差はある。
 絶対ではない。
 とてつもなく面白かったけれど、繰り返し読みたいとは思わない――そんな本、誰だって読んだ経験はあるだろう。
 それと同じだ。

*1:長編・中編も評価を受けていることは、言うまでもない

*2:新書判は『石ノ目』

*3:他に『冷たい森の白い家』『神の言葉』なども