雲上ブログ〜謎ときどきボドゲ〜

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作者から読者へのアプローチ

 言葉が少なすぎると、作者が言いたいことが判らない。言葉が多すぎても、作者が言いたいことが判らない。読者にメッセージを正確に送り届けるには、言いたいことを積み重ねていくか、言うだけ言ってみてから無駄なものをカットしていくかの二種類がある。これを自分はよくボトムアップトップダウンに喩えてみたりする。
 果たして自分がボトムアップなのか、それともトップダウンなのか。そういった問題は、往々にしてトリビアルなもので、そんなものにうつつを抜かしている余裕があるのなら気にせず走れと言いたいところなんだが、グダグダ言うのは自分の仕事のようなもので。大勢を代表して、自分が考えるべきではないのかと空虚な使命感に駆られている。技術的に考えてみよう。
 秋山は「小説の主張」というサイトで、書評家というのをやっていて、まあ依頼のあった小説を読んで書評や感想を寄せるボランティアみたいなものだが、そろそろ始めてから一年になり、同じようなアドバイスをすることが増えてきた。
 自分がよく言うのは「もっと語れ」。とりあえず、それなりに読める小説には、ストーリィ・キャラクタ・世界観の三つぐらいが必要で、この「もっと語れ」とアドバイスする作品には、前述のファクタのうちのひとつだけが極端に特化されているの。例えばストーリィの場合、年表のように延々と事実だけを列挙されて、重要人物が死んだシーンでも「あれ? こいつ誰だっけ?」なんて思いつつ読み飛ばせてしまって、あまり面白くない。例えばキャラクタの場合、恐らく作者の頭の中には、キャラクタのひとりひとりが姿形を伴なって積極的に動き回っているのだろうけど、読者の視点からすれば科白ばっかりが繋がっていて、話している場面も、彼らの関係もまるで見えてこない。例えば世界観の場合、その世界で信仰されている神様の名前や、魔法や武器の名前などが延々と箇条書きされて、一体これで何をどう読めばいいのかと手を挙げるしかない。――このような作品には、とりあえず「読者になったつもりで読んでみて、足りないと思われる箇所を書き足せ」とアドバイスしている。
 上の丸っきり逆のパターンで、今度は「すこし抑えて」と言うのがある。こちらは、とにかく語りすぎなのだ。恐らく、作者はまず自分が描写したい場面を想像して、実際にその場に立っているつもりになって徹底的に語っているのだと思う。主人公の寝室の間取りや、ヒロインのファッションセンスがいかにハイスタンダードか、そういった読者としてあまり興味が持てない点にまで丁寧に説明されているので、さすがに辟易してしまう。また、人によっては妙に文章が上手い人もいて、へたに形容詞を知っているだけに、ありとあらゆる手段で語り尽くしたりするの。漆黒だったり夜色だったり鴉の羽根のような色合いだったり、同じ言葉を繰り返したくない精神は判るけれど、毎回毎回、先ほどと違う描写をされては、同じキャラクタが同じように想像できなくて困ってしまう。
 自分が理想と考えているのは、両者の中間。語り足りているわけではなく、語り過ぎているわけでもない。中庸。パーセンテイジで言えば、五十%のエリアが目指すべきもの。
 それで、自分はと言えば、どちらかと言えばトップダウンの人間。つまり、普通にやれば語りすぎてしまう。ゆえに、制限する必要がある。しかし、制限しすぎてしまう語り足りないという事態に陥る。しかも、他人に理解されたくないという精神が根底に流れているせいか、狙ったパーセンテイジの少し下が結果として現れる。こうして、適量に語ることができず、理解できない小説が生まれてしまう。悪循環である。
 余談だがこういった思想を持っているから、自分は「長い=美徳」という思想を持つ小説があまり好きではない。長さを自慢するのより、短さを自慢した方がよっぽど格好いいです。でも、まあ、長いのも突っ走れば格好いいと思います。例えば一日原稿用紙十枚書いたとしても、一年では三千五百枚ぐらいしか書けませんから。四千枚を越えたら、誇りですよね……。
 閑話休題。今回のこの思考は、普段の思考以上に意味を為さない。何故なら、五十%の中庸とは、目指すべきものであり、ピタリ賞を出すことはできないから。それに五十%だけが絶対というわけではない。二十%の淡々として透明感のある作風もあれば、八十%の濃厚なドロドロとした作風もある。正解はないのだ。むしろ、君が決めるんだ。
 とまあ、普通の人間であれば、思考はここで終了なんだが、残念ながらグダグダが仕事の暇人に限って言えば、そうは行かない。自分は今まで適当に何とかなるだろうとやってきて、何ともならなかった人間であるから、自分から積極的に動いて考えない限り、何とかできないことを知っている。いや、何も考えないで成功できる人間もいる。と言うか、それは視点の問題だから、成功ラインをさげてやれば、成功できない人間なんていない。多分、自分に彼女ができないのは、自分が面食いだからだ。や、これは関係ないか。自分の性格が悪いだけだね。
 自分は知っているのだ。目指すことしかできない二十%、五十%、八十%とは違う、絶対に成し遂げることのできる零%と百%が存在することを。

 私、秋山真琴!
 十六歳の女子高生。
 お父さんとお母さんと弟の四人家族で……。
 あ!
 予鈴が鳴っちゃった。
 残りは後で!

 うわあ。もう駄目だ自分……立ちなおれねえ、ううっ。
 ええと、上のは……いや、自分で書いておいてよく知らないんだが、昔のコバルト文庫によくあった手法。誰かが発案して、後続がいっぱいいただけなんだが――一行が十文字もなくて、改行改行改行の連続。今やったら怒られるだろうけど*1、かつては勝利の定石だった、と。まあ、これが自分の中における零%。ちなみにこれを借用してみた作品に『プラトニック・ノート』というのがありますが、別に読む必要はありません。
 零%の対極にあるには、百%。これは……まあ、各自が適当に想像してください。延々と難解な漢字でページを埋めつくし、まるで黒い紙のような小説。こちらは興味を持てないというか、労力に見合う結果が得られなさそうなので挑戦してませんが、ま、そのうち機会があれば……。
 さて。今までずっと二元論で話してきましたが、ここで一気にふたつ価値観をぶちこみたいと思います。Shadeで図を作ってもいいんですが、面倒なので想像してください。X軸はストーリィ、Y軸がキャラクタ、Z軸が世界観。今まではこの三つのファクタのパーセンテイジを平均化したものを使ってきたんですが、今後は三つそれぞれに、パーセンテイジを考えてやろうということです。これでずっと思考の幅が広がりましたね。グダグダのし甲斐もあるってもんです。
 まず簡単な例から話に入って、理解度を高めようと思います。
 例えばキャラクタが百%で、残りが零%の小説。これは完全にキャラクタ小説、あるいはキャラ萌え小説。ストーリィも世界観も、キャラクタを引き立たせるためだけに存在するご都合主義の塊で、キャラクタしか読みどころのない小説。どうです? イメージつきましたか。
 理想的なのは、この三つのファクタがそれぞれにそれぞれを高めあっているの。例えばこの世界観でしか語ることのできないストーリィ、このストーリィでしか活かされないキャラクタの魅力、このキャラクタしか存在することができない世界観。この相互関係が綺麗な三角形を描く作品こそ、真に目指すべきものではないでしょうか。
 真に目指すべきものではないでしょうか……なんて軽く言ってみたが、これが楽に達成できたら、誰も苦労はしねえ。そもそも、グダグダ考えたところで、それを実践できた試しなんてないし、この間の『彼女が呼んでいる』もなんだかんだ言って思考と実験の距離が掛け離れているし。はっきり言って思考した意味がないし、実験にもなってない。これぞ正しく試行錯誤なんてね、はっはーって自分が開きなおってどうするんだよ、ったく。これから頑張りますってかー、せいぜい頑張ってろこの腐れ暇人が。ハ! 終了終了。徹頭徹尾、やってられねえぜ。

*1:主に久美沙織氏などに