雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

殴らせない火曜日

 しかし実際、他人の狂い方が足りてなかろうが届いてなかろうが、どうでもいいのです。問題は自分自身の狂い方です。創作の中に己を投影する作家がいます。分かりやすい例を挙げれば、自画像や作者と同名の探偵などでしょう。秋山自身、秋山真琴というキャラクタを作中に出していますし、露骨に名前が一緒でなくても、大抵の一人称小説は作者自身が少なからず投影されていると思ってもいいかもしれません。投影、とは便利な言葉ですが、創作の中で語られる存在と作者自身はやっぱり別人な訳です。創作の中に放り込まれるのは作者自身ではなく、その理想や空想――作られた存在であるわけですから、意図的に意識的に作りこんでいかなければならないのです。そしてその際に、作者が根っからのエンターテイナ=面白い人物であれば問題ないのですが、そんな人間など存在せず、どんな面白い人も裏でネタを考えたりツッコミを練習したり努力していると思います。もしそうであれば、創作の中に自己を投影するとなると、必ず人物としての作り込み、言わばキャラ立てのような作業を行う必要が出てきます。そして、そこに、ある種の狂いや病みのようなものが必要なのではないかと思います。例えば作中にて苦悩する人物が出てくると思います。恋愛にでも仕事にでも、何でもいいんですが、とにかく苦悩しています。その場合、苦悩する人物を作り出すのに、作者もまたある程度、想像で苦悩する必要が出てきます。勿論、現実に失恋したり失職していれば、想像するまでもなく苦悩していますが、やはり苦悩という曖昧にして観念的なものを、言語化したり映像化して創作にまで昇華するのには、ロジカルなプロセスが要求されます。そして、その求められるプロセスこそが、狂いや病みではないか、と。つまり方法論な訳です。狂うこと病むことで創作するのです。
 あまり具体例を挙げるのは恥ずかしいのですが、秋山は「泣きっ面に蜂」と言うか「踏んだり蹴ったり」と言うような状態に陥ることが多いです。客観的には、下準備が十全なのに肝心肝要の場面で抜けているように見えるのだと思いますが、とにかく、どうにも思ったように事が進められないことが多いです。仮に今の秋山が空想でなく現実に苦悩しているのならば(しかしよくよく考えてみれば、苦悩と言うのは気づかないうちに行われているもので、それは主観的には観測しえないもののような気がしないでもない)それを何らかの理論にまで高めるのにやぶさかでありません。「転んでもただでは起き上がらない」と言うか、とにかくこの身に受けた傷から目を背けて忘れてしまうのではなく、むしろ目に焼き付けて魂に刻み付けたいわけです。それはいずれ同じ傷を受けたときに求められる回復時間を短縮化するという目的の他に、記憶を瞬間的な狂いにではなく、永続的に創作の中に盛り込むことができる理論に昇華してしまいたいと思うからです。