雲上ブログ〜謎ときどきボドゲ〜

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水曜日、終着駅はまだ先ですよ。

 昨日に引き続き「メタ探偵の憂鬱」の話を。メタ探偵という言葉を初めて知ったのは、清涼院流水のJDCシリーズで、必要なDATAが揃うと真相を看破する九十九十九(つくも・じゅうく)が、秋山とメタ探偵との第一次接近遭遇でした。秋山作品におけるメタ探偵は、清涼院流水のメタ探偵よりもさらに優秀で、事件を解決するのに必要なDATAが揃っていなくとも事件を解決することができます。雰囲気的には未来視、そして過去視に近いですね。しかし、そんな反則技を主人公が使っては物語にならないので、「メタ探偵の憂鬱」ではメタ探偵がメタ推理を使えなくなるという場面から物語が始まります。
 舞城王太郎九十九十九』を読んだときも思ったのですが、メタ探偵は証拠を集める必要も、関係者を一堂に集める必要も、謎解きを論理的にする必要もないような気がするのです。したがってメタ探偵を主人公に据えることは、ミステリ的に魅力的な部分を大きく割かなくてはならないことを意味します。そのデメリットを払ってまで手に入れる価値のあるメリットは何なのかと言うと、それはいわゆる探偵論というやつではないでしょうか。
 東野圭吾名探偵の掟』、麻耶雄嵩『名探偵木更津悠也』のように探偵がテーマとして盛り込まれている作品もあれば、笠井潔佳多山大地の評論のように直接、論じているものもあります。「メタ探偵の憂鬱」ではひとつ秋山なりに、探偵なるものについて語ってみました。