雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

怪談小説とは何か?

 それは、読者の想像力によって完成されるホラー小説です。
 と、言うのがいちばん分かりやすい定義なのかなあと思う次第。西荻てのひら怪談イベントレポを書いたときにも、余談として述べたのですが、今日はもう少し踏み込んで考えてみたいと思います。
「怪を談ずる」という字面を見ても分かるとおり、怪談の本質とは「ふしぎな出来事を語ること」であって「読者を恐がらすこと」ではありません。したがって、最初に結論っぽく述べた「読者の想像力によって完成される恐怖小説」というのは、厳密に言うと、ちょっと違うのではないかなあと思います。ただ、違うのは「恐怖小説」の部分であって「読者の想像力によって完成される」の部分に関しては、我ながら怪談小説の本質を、的確に指摘できているのではないかと分析します。
 怪談小説……に限らず、あらゆる小説というのは、作者と読者の間で交わされるコミュニケーションだと考えています。で、コミュニケーションは基本的に成功しないものとも考えています。伝えたいことを、完全にアウトプットすることなど不可能ですし、また情報を完全にインプットすることも不可能でしょう。顔を突き合わせて、腹を割って話そうとしても通じないことがあるくらいです。ましてや小説という媒体を通してコミュニケーションが成立しうるだなんて……そう思っているほうがクレイジィです。あ、クレイジィは言いすぎですね。失礼失礼。
 小説を介してのコミュニケーションは成立しない。しかし、その成立しないっぷりこそが、小説のなによりの魅力。と言うのは秋山の持論です。コミュニケーションが成立しないことが、小説の魅力と言うのは、つまり、好きなように読める/楽しめるという、自由度の高さが小説を面白くせしめているということです。同じ小説でも、ひとによっては傑作だったり駄作だったり、文学だったりエンターテイメントだったり、読み方は十人十色でしょう。もし、仮に、正しい読み方なんてものがあったりしたら……「この小説はこう読むのが正しい、この小説のこの文章はこのように捉えるのが正しい」なんてのがあったりしたら、読書なんて誰がするのでしょう。小説なんて作者の不完全なアウトプットに過ぎません。それをどのようにインプットし、どのように誤読し、どのように曲解し、どのように楽しもうが、それは読者の自由であり、読書するものに与えられた特権でしょう。小説はどこまでも自由なのです
 さて、数ある小説のジャンルのなかでも、この自由度がことさら高いのが「怪談小説」ではないかと考えています。けれど、その前に怪談小説とホラー小説の違いを説明しましょうか。
 ホラー小説というのは、秋山の定義では「読者を恐がらせる小説」ですね。したがって、恐怖小説と言い換えても問題ありません。か弱い主人公が殺人鬼に追いかけられたりして、主人公に感情移入した読者は、まるで自分が殺人鬼に追いかけられているような気になり恐怖する、というのがホラー小説によく見られる構図ではないでしょうか。
 では怪談小説はどうかと言いますと、別に「読者を恐がらせる小説」ではありません。しかし「読者の想像力によって完成される、読者を恐がらせる小説(ホラー小説)」ではあると思います。これがどういうことかは、実際にひとつ怪談小説を読んでもらうのが手っ取り早いので、ここで一作、読んでいただきたいと思います。
 以下に引用させていただいておりますのは、第4回ビーケーワン怪談大賞で佳作を受賞した、Flack氏の『吉田爺』という作品です。リンクを張るだけでもいいのですが、わざわざ飛んでいただくのは恐縮なので引用します。もし怒られたら引用をやめて、リンクに切り替えます。

小学生の頃、よく友達と一緒に吉田爺の家へ遊びに行っていた。吉田爺は小さなトタン屋根の、ひどく古びた小屋に独りで住んでいる、ちょっと呆けた爺さんだ。彼は、私たちが来ると「省吾か?省吾か?」と必ず聞いてくる。当時、私の仲間に省吾なんてやつは居なかったし、私も省吾なんて名前じゃない。だけど「そうだと」言っておけば、「そうかそうか。よく来たな」と勝手に納得して、ジュースやお菓子を出してくれるし、時にはお小遣いまでくれたりする。だから私たち悪童連中は、遊びに飽きると決まって吉田爺の家に行き、おやつや小遣いをせびっていた。


ある日、学校の帰りに「吉田爺のとこ行こうぜ」という話になったが、私はその日、日直当番だったので、皆よりも多少遅れて行った。勝手知ったるで上がり込んだものの、何故か友人の姿はなく、吉田爺がただ一人、座っているだけだった。彼は例によって「省吾か?」と聞いてくる。普段は「そうだ」と答えるのだが、その日に限って、私は「違う」と答えた。
「じゃあ昭夫か? 秀文か? それとも悟か?」
ドキリとした。昭夫も秀文も悟も、私の友人で、一緒にこの家に来たことが有ったからだ。
「違うのか……なら智一だな」
今度こそ驚いた。智一とは紛れもない私の名前だ。「そうだ」と言うべきか「違う」と言うべきか、迷ってる私に「智一ぅ、そうか、智一来たかぁ……」とお爺さんは近寄ってくる。
怖かった。お爺さんの笑顔が、いつもの“省吾”を相手にしている時と比較にならない“良い笑顔”だったからだ。逃げるようにようにその家を飛び出すと、いつまでも「智一…智一ぅ」という声が背後から追ってきた。気持ち悪かった。
それ以来、吉田爺の家には行ってない。一度、母に「吉田のお爺さんって何なの?」と聞いてみたが、「知らない」と苛立たしげな口調で言われただけだった。
http://blog.bk1.co.jp/kaidan/archives/001590.html

 いかがだったでしょうか?
 もし「恐い」と思ったならば、それはあなたが想像力を発揮させたからだと思います。何故なら、この小説は恐くないからです
「はあん? この小説が恐くないだって。秋山って実は読解力ないんじゃね?」
 と思われる方もいると思うので、のんびり説明しますが、この小説ではちょっとふしぎな謎を取り扱っているだけで、恐怖は取り扱っていません。箇条書きにしてみましょう。

  • 吉田爺とは何者か?
  • 省吾とは何者か?
  • 吉田爺はどうして子どもに小遣いをくれるのか?
  • 主人公の友人はどこに行ってしまったのか?
  • 吉田爺はどうして主人公やその友人の名前を知っていたのか?

 提示されている謎はこれぐらいですかね……。これらの謎、うえから順番に見ていってみると、どれも現実的な理由がつけられますよね。吉田爺とは近所に住むただのボケ老人で、省吾というのは吉田爺の孫。吉田爺が子どもたちに小遣いをくれるのはボケているから、しかし子どもたちが互いに名前を呼び合っているのは聞いていたから知っている。主人公の友人が吉田爺の家にいなかったのは、帰った後だったから。
 どうでしょう? もしうえのような理由があれば、この小説は恐くともなんともない、ただ子どもとボケ老人の対話を描いただけの話になります。しかし実際には、うえの理由は秋山の推測であり、作中には一言も書かれていません。同様に、たとえば吉田爺の正体が奴隷商人だとか、子どもを食べる妖怪だとも作中には書かれていません。
 そうです。この小説に書かれているのは吉田爺という正体不明の老人だけで、彼が何者であるかは一切、明かされていないのです。そしてそうであるが故に、読者はその無限の想像力を持って、吉田爺という不可思議なる登場人物を、存分に妄想できるのです。好きなだけこの作品を深読みしたり曲解したりすることができるのです。それは言ってみれば、意図的なコミュニケーション失敗です。
 つまりは、これが読者の想像力によって完成される、ということです。


 まあ、そんな感じで今回は「怪談小説とは読者の想像力によって完成されるホラー小説です」というお話でした。
 次回は多分「怪談小説とは読者の想像力によって完成されるホラー小説ではない」というお話をすると思います。