雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

「変てこ」かつ「愛している」ラノベについて

 本気でこの条件に困ったというか、「変てこ」かつ「愛している」という条件が私の中では同時に成立しない条件だったと言うか、そんな作品があっただろうかという感じで余りにも心を苛まれたので、この際だからいっそマゾ的な快楽に目覚めるギリギリまで引っ張ろうかと思ったくらいだった。

撲殺天使ドクロちゃん」とかは変ラノと言えば変ラノと言えなくもないんですが、アレに突き詰められた様式美のようなモノを見出してしまっている私は「変」と思えず、結果投票出来ないのでした・・・。

 このエントリを読んだのは今朝方ですが、何か重要な、もしかするとid:hobo_kingさん自身も気づいていないような、深い示唆が含まれているような気がしてなりませんでした。もやもやしたものを抱えながら過ごしていたら、いつの間にか追記がありました。

 どうも私にとっては「愛した」瞬間にその対象がどのようなものであっても「変」では無くなるようです。あばたがえくぼに、馬鹿は愛嬌に、変は常識に、そんな気分でしょうか・・・。

 ここを読んで、なんとなく疑問が溶けた気がしました。
 変わったライトノベルとは何か?
 この問いは「この世には変わっていないライトノベルがある」という考えのうえに立っています。でも、変わってないライトノベルって何なのでしょう? たとえば『ロードス島戦記』は今では、極めてありふれた、没個性的な作品かもしれません。けれど刊行当時は極めて斬新な作品だったはずです。ここから逆説的に、変わったライトノベルとは「変わっていないライトノベルになってしまったもの」と言えることに気づきました。これを秋山は変てこなライトノベルにおいて「ジャンルとしてのライトノベルの幅を広げた作品」と表現しました。
 しかし、この考えは間違っていたかもしれません。
 いえ、もう少し、正確に言うなら、愛という感情を考慮しわすれていたかもしれません。
 なにかを愛したときに発生するのは「変わっているものが変わっていないように捉えられるようになること」ではなく「変わっているものをそのままに受けとる」もしくは「変わっているものが見えなくなる」ということではないでしょうか。どちらにせよ「変わっているものが変わっていないものになってしまう」つまりスタンダードになってしまうというわけではないことに気がつきました。
 あばたもえくぼ、という現象について考えてみましょう。顔中に、にきびの痕があるひとを好きになったとします。その後、恋愛効果によって、にきびの痕も含めてそのひとのことが愛おしくなったり、もしくはにきびの痕を見ても脳がその事実を拒否することによって認識外に追いやられるかもしれません。けれど、にきびの痕それ自体が好きになる、ということはありません。仮にそのひとと別れた後、顔中ににきびの痕があるひとが好みのタイプになったので、またそういうひとを探すということもないでしょう*1
 うえは秋山の愛の捉え方なので、そうでない方も多いと思います。けれど、秋山やhobo_kingさんのように愛を捉えるひとにとって愛と変は同時に成立しえないもので、hobo_kingさんの挙げた5冊は最大限の譲歩と言うか、論理的な帰結だと思います。つまり、何が言いたいかというと──せっかくだから俺は支持するぜ!

*1:もちろん、にきびの痕フェチになるという可能性はありますが、それは愛とはまた別物のように思います。