雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

文学的な存在としての私

 憧れの先輩が妊娠していると知ったときはショックでした。
 気恥ずかしくて話しかけることはできず、出産は夏を予定していることと、父親がいないこと(シングルマザーとして子どもを育てること)は、人づてに聞きました。ぼくに出来たことは、自画像を描きつづける先輩の後ろ姿をぼんやり眺めることと、先輩が帰った後に、こっそりキャンバスを覗きみることだけでした。
 大学の学園祭において展示された、先輩の一連の作品は、すべて同じ構図で描かれた自画像で、少しずつ大きくなっていくお腹と、わずかなタッチだけが違っていました。なんとなく後の方になるにつれ、筆のタッチがやわらかくなっているように思えましたが、気のせいかもしれません。
 夏休みの間に出産した先輩は、そのまま退学し、二度と美術部に顔を出しませんでした。
 先輩の作品は、今でも部室の隅に残されています。
 その連作の題は『文学的な存在としての私』という。


 8年ほど前に書いた短編小説を、発掘しようとHDDを漁ったけれど、結局、出て来ませんでした。我ながら、よく書けていたような気がしますが、思い出補正が掛かっている可能性が高いので、見つからないなら見つからないで別にいいかなという気もします。


 ときどき文学的な存在としての秋山だとか、面白半分に言ったりしますが、ここでいう文学的の対義語は、散文的、です。
 散文的な──つまり、生活感を感じさせる、俗世的で動物的な諸々を削ぎ落とし、今日は五衰を知らない雲上人みたいに文学を語るよモードが文学的な存在としての秋山です。
 もし遭遇したら、仲良くするか喧嘩するかしてください。よろしくお願いします。