三連休は最初の2日間を謳歌してしまったので、3日目は怠惰を極めることにしました。
と言うわけで、ラストオブアスのプレイ動画や、おやつの人の改造版ロマサガ3プレイ動画を延々と見ていたのですが、改めてロマサガ3の魅力と不完全性について思うところがあったので、少し書いてみることにします。宣伝禁止に抵触しないように……。
ロマサガ3の不完全性
『ロマンシングサガ』という一連のシリーズの中で、いちばん繰り返し遊んだのは間違いなく『2』ですが、いちばん好きなのは『3』かもしれません。
『2』は帝国を拡大させていく雰囲気が好みで、どんどん時間が吹っ飛んでいくのも良いですし、継承によって想いや志が引き継がれていくのも素敵です。七英雄に対する、文字通り積年の恨みを晴らすべく皇帝が奮闘するのは納得と共感がありますし、七英雄を撃破した後のエンディングもグッと来ます。
唯一、苦言を呈すとするならば、七英雄の正体と動機でしょうか。ゲームの中盤から終盤にかけて、古代人によって語られたり、遺跡に残された情報から、その正体に迫ることができますが、もう少し……もう少し語ってくれても良いのでは? と思わないでもないです。とは言え、その一方、これくらい慎んでいるくらいがちょうど良いのかも、とも。
『3』は、明らかに説明不足であるように感じます。アビスゲートを通じて、四魔貴族が影と共にモンスターを送り込んで悪さをしているのは分かりますが、実際に、そのせいで人々が迷惑を被っているかと言われれば、そうでもありません。むしろゴドウィン男爵、マクシムス(ジャッカル)、ドフォーレといった、単に欲深い人間の方が、よっぽど悪さしています。
魔王殿や火術要塞、海底宮まで、わざわざ出かけて行って、他の誰かではなく、主人公が、四魔貴族を倒さなければならない理由が分かりません。四魔貴族(影)を倒した後、東方に向かう理由に関しては、秋山の場合、初プレイはユリアンだったので分からなくもなかったですが、たとえばハリードやミカエルの場合「わざわざ、行くかなあ〜?」とも思います。
ただ、それ以上に衝撃なのは、ラスボスが破壊するものであること。アビスで四魔貴族を元から従えていたアビスロード(仮称)だとか、あるいは、600年前に消息を絶った魔王が、実はアビスゲートを通りアビスにいて、それがラスボスなら問題なかったのですが……破壊するものですよ、破壊するもの。最初に遭遇したとき「えっ」ってなりましたよ「えっ」って。
エンディングにおける、破壊、しかる後の創造も、ちゃんとした手順を踏まれていれば、SF的なカタルシスになっていたように思うのですよね。ファンタジー世界における七英雄が、実は次元移動装置なんていうSF的ガジェットを調査していたというところで大いにテンションが上がったように、アビス周りも、もう少し説明があれば、素晴らしかったと思うのです。
ちょっと考えてみましょうか。たとえば、あるとき死星が地球に接近し、死食が起こって新しい生命が誕生しなかったと。その理由が、死星の持つ独自の風土か瘴気か分かりませんが、それに当てられて魔王が誕生します。魔王は世界を支配し、さらにアビスゲートを開いて、離れつつあった死星を地球に繋ぎ止めます。こうして、死星が地球の衛星となって、300年周期で死食が起きるようになります。アビスゲートを渡り四魔貴族を支配した魔王は、しかし、破壊するものに敗れます。破壊するものは、その名の通り、すべてを破壊するために、宇宙の中心を目指し、死星を飛ばしていたのに、アビスゲートなんかで地球に繋ぎ止められて激おこだったのです。魔王の軛から解き離れた四魔貴族は、破壊するものの指示を受け、なんとか地球を破壊し、当初の目的を果たそうとしますが、300年ほど経ったところで聖王が登場して、逆にやっつけられます。そうして、さらに300年が経過し、アビスゲートを解放し、新たなる魔王にならんとする少年と、その計画を阻止し、破壊するものの脅威を永遠に退けようとするサラの戦いが始まるのであった……。
うん、妄想です……。
ロマサガ3の魅力
よくある表現ですが、語り過ぎていないからこそ、想像する余地がある。
秋山が、いちばん繰り返し遊んだのが『2』でありながら、ロマサガシリーズの中で、いちばん愛着を覚えているのが『3』なのは、やっぱり、ここらへんに由縁しているような気がします。
もちろん、キャラクタの強度もあるでしょう。
『2』における歴代の皇帝で、キャラが立っているのはレオンとジェラールでしょう。そこから先、最終皇帝に至るまで、言ってみればモブキャラを操作することになるわけです。好意的に解釈すれば、名前を持っていないが故に、プレイヤの分身として、自身を投影しやすいというのはありますが、そこはプレイヤ自身の想像力で補わずを得ないでしょう。
一方『3』は、『1』と同様に、男女数名ずつキャラクタがいるので、自分の好きなキャラを選び、そのキャラの人生を追体験するようにゲームをプレイすることができます。特に、ミカエルはマスコンバットが面白く、ロアーヌという土地への愛着も湧きます。モニカを主人公としたときは、なんとなくパーティにレオニードを入れておきたくなりますし、カタリナを主人公としたときは、マクシムスを追うもの同士としてハーマン(ブラック)と組ませたくなります。
キャラに関する話は本筋ではないので、閑話休題、想像する余地が残されていることについてです。
前段において、さんざん突っ込んだ不完全性ですが、これは、もう、完璧に、完膚なきまでに、ひっくり返せば、そのまま魅力であるとも思います。
生と死が、愛と憎が、表裏一体の関係にあるように、魅力と不完全性も、見方が異なるだけの、同じものではないのかと……。
そんなことを改造版ロマサガ3を通して、気がついたような気がします。
と言うわけで、ようやく本題です。
改造版ロマサガ3
『改造版ロマサガ3』は基本となる『3』に加えて、仲間にできるキャラとイベントが増えています。
具体的には『1』『2』『サガフロ1』の主人公をはじめ、ボルカノやヨハンネスといった『3』では仲間にならないキャラを仲間にすることができたり、ディステニィストーンを集めたり、サルーイン、デス、シェラハがボスとして登場したり、七英雄がボスとして登場したり、これらに関係するイベントが追加されています。
……紹介は、これくらいにしておいて、秋山が感心したイベントが3つあります。
ひとつはヴァンパイアです。スタンレー周辺のモンスターが活発化し過ぎて、ヴァンパイアが現れて、スタンレーの住民がヴァンパイアになってしまうというものです。いや、これは怖いですよ。村人に話しかけたら、いきなりヴァンパイアになって襲い掛かってくるのは、かつてアバロンを襲ったアリを思い返す一方、アビスゲートが開きかけることによって、人間社会に確かに悪影響が波及していることを実感します。こういうイベントを見ると「最寄りのアビスゲートを閉じなきゃ!」という強い気持ちが湧いてきます。
ふたつ目は小さな村復興です。グゥエインによって全滅してしまった小さな村を復興させるために、色々と支援したり、襲撃を掛けてくるクジンシーを倒したりするのですが、復興した後の村が、主人公の名前を冠したものであったり(おやつタウン、いいじゃないですか、おやつタウン)、救われた村人が「まるで聖王様の再来じゃ……」と言うくだりが、なんだかグッと来ました。考えてみれば『3』の主人公は、ミカエルとモニカを除くと、後はほぼ、単なる村人なんですよね。本来は世界を救うために四魔貴族なんかと戦う必要はないわけです。まあ、百歩譲って、意識の高さから四魔貴族を倒し、東方のアビスゲートを通り破壊するものを倒しに出掛けたとして、他のパーティメンバーはびっくりですよね。小遣い稼ぎに同行を申し出たウォードは内心「えらいことになっちまった」と思ってますよ。と言うかボストンなんか「最果ての島から終末へ‥‥おもしろい」だなんて、男気ありすぎですよ。さておき、この小さな村復興イベントにおいては、主人公に強い責任感を覚えさせる効果があるような気がするのですよね。村を救い、彼らにとっての救世主となり、ここ以外にも、同じような村がもっとあるかもしれない、だから頑張らなくては、という。
最後は魔王遭遇です。ねじれた森を抜けて、魔王と戦うのですが、これも、ある意味では小さな村復興と同じですね。かつて聖王が四魔貴族を打倒し、アビスゲートを封印したように、魔王と戦うことで、主人公は自らの立ち位置を明確に定めたように感じます。あるいは覚悟を決めた、と換言してもいいかもしれません。つまり、それまでの四魔貴族との戦いというのは、あくまで近隣住民が、ちょっと遠出して、えいってやっつけた感がありましたが、わざわざ「戻ってこれないかもしれない」というリスクを犯してまで、魔王の玄室に向かい、魔王を倒しに行くというのは、もはや遠出レベルを越えています。魔王を倒すというのは、言うなれば「自分は聖王と同格の存在である」というアピールでもあるので、小さな村復興における「聖王様の再来じゃ……」と相まって、非常にテンションが上がります。
動機の再認識
プレイ動画を見ていたときは「ああ、こういうイベントがあったらなあ」とぼんやり思っただけでしたが、振り返って考えてみると、やはり『3』には、こういったシーンが欠けていたように思います。
改造版を見ることで、改めて『3』にはプレイヤ自身が操作する主人公キャラに、破壊するものと戦うという明確な動機がなかったことを認識し、逆に改造版においては、その動機が追加イベントによって描かれているので、その動機を受け入れることで、ラスボス戦に至るまでのストーリーを、より自然なものであるとプレイヤとして受け取れるようになった気がします。
……ですが! ここで、前述した魅力=不完全性の法則を思い出してみたいと思います。確かに『3』には動機が欠けていたように思います。それ故に、破壊するものとの戦いが唐突に感じられ、今ひとつ気持ちが乗りませんでしたが、それこそ、ゲームを、ただのゲームとして享受してしまっていたからではないでしょうか。
もっと積極的に。歴代皇帝に自分自身を投影したように、破壊するものと戦う動機を、もっと真剣に、もっと想像していれば、あるいは──、あるいは……。
うーん。
やっぱり、どうかな……乗れていたような気もするし、やっぱり乗れていなかった気もします。
おわりに
改造版ロマサガ3は、とても面白かったです。ロマサガが大好きなひとが、作りこんでいるなあという印象で、その雰囲気を共有できたことが、とても嬉しかったです。こういう作り込みから「あっ、やっぱり、こういうイベント入れたかったよね」みたいなものを発見することができて、より想像を膨らますことで、『3』の魅力=不完全性を再認識できたように思います。
と言う感じで。