雲上ブログ〜謎ときどきボドゲ〜

オススメの謎解き&ボードゲーム&マーダーミステリーを紹介しています

『思考ツールとしてのタロット』と『くま対タロットがおーがおー』を読み比べる

f:id:sinden:20210511151915p:plain
 米光一成さんの『思考ツールとしてのタロット』と『くま対タロットがおーがおー』を読みました。
 タロットは不勉強なので全体的に面白く読みました。

『思考ツールとしてのタロット』について

『思考ツールとしてのタロット』は2012年7月21日に阿佐ヶ谷ロフトAで開催された『思考ツールとしてのタロット』というイベントをテキスト化した作品です。米光さんが当日、喋ったであろう言葉だけでなく、漫画風のイラストが多めで、実際に喋っている様子が頭に浮かぶように編集がされています。

(米光さんのあやしい登場)
「想像してくださーい」
「世界が、まだ、言葉を持っていない世界を」
「いっさいの言葉がなく、すべてが未分化である世界を」
「いや、世界すらなく、他者もない、自分もない、ないすらない」

 あ、あやしさ溢れます……!
 もし、わたしが、このイベントに参加していたら、客席の片隅で、


これは、やばいところに来てしまったな


 と、内心つぶやいたことでしょう。
 ただ「世界と、自分が、まだ未分化である」状態を想像しましょう、というのは、しっくり来ます。
 わたしの感覚では、これはシュルレアリスムのアンドレ・ブルトンが言うところの自動記述に近しいです。2006年頃、パリ文学に興味を持っていて、いろいろと調べているうちに巖谷國士氏の本と出会い『シュルレアリスムとは何か』という本で自動記述の概念を知り、あまり感銘を受け、現代風に再解釈して『文学2.0』というタイトルをつけて、第5回『文学フリマ』で販売したりしました。



 閑話休題。
 本書はタロットカードの意匠を解説しつつ、この魔術的な道具を用いつつ、そのランダム性をひとつのキッカケとして、自分自身を見つめ直したり、世界を再認識してみましょうという本です。広義の自己啓発、生きるとはなにか? といった本とも言えるのではないでしょうか。
 わたしはトランプ収集が趣味で、タロットカードは占いの道具ではなく、トリックテイキングゲームを遊ぶためのコンポーネントとして認識しているので、その点では非常に興味深く読めました。



 読んでいる最中に思い出したのですが、大塚英志も『物語の体操』においてタロットカードを物語づくりのツールとして紹介していたように思います
 後はタロットに、1909年のウェイト・スミス版や1448年のヴィスコンティ・スフォルツァ版、1650年のマルセイユ版、1944年のトート・タロット(かの魔術師クロウリーによるデザイン!)など多様なバリエーションがあることを知れたのは収穫でした。
 上述の通り、わたしはコレクションはトランプが主で、種類の多いタロットは、そのうち余力があれば……と思っていましたが、主要なところだけは揃えてもよいかもしれません。

『くま対タロットがおーがおー』について

「クマなんだけどタロットをはじめて、こんな部屋に住んでるんですよ。タロットカードが助けてくれる」


「助けてくれる?」


「アドバイスしてくれる。ほぼ本能オンリーだったんだけど、タロットを使いこなすようになって想像力も加わり、そのおかげでこうやって喋れるようになった」

 タロットすげーな! マジで!!
 と言うわけで『思考ツールとしてのタロット』が、米光さんが読者に向かって話しかけてくる体裁だったのに対し、『くま対タロットがおーがおー』は言語を解するクマが人間にタロットを教える対談風の本です
 と言っても、わたしは、なんとなくクマの皮をかぶった米光さんが与儀さんと話をしている、みたいな雰囲気で読みました。
 内容的には『思考ツールとしてのタロット』と同じく大アルカナの解説がメインなのですが、クマが説明して、人間が疑問を覚えて、クマが解説するという流れが分かりやすく、『思考ツールとしてのタロット』よりも読みやすいと言えるかもしれません。
 それにしても、このタイトル。えらい攻めてますね……。

終わりに

 もうひとつ肝心なポイントがありました。
 どちらの本も米光さんらしい、ライトでフラットな表現で統一されていることが好印象でした。隠秘と言うか、オカルティックな要素が過剰にフォーカスされることなく、オカルト的なものも、なんとなく見つめつつ、研究者としてのフラットな視点もあって安心して読めました。コレスポンデンスをコレポンと略すのも米光さんらしいですよね。
 タロットは前々から興味があって、すこし学びたいなと思っていたのですが、その最初が本書だったのはラッキーでした。