アニメで『鬼滅の刃』の「竈門炭治郎 立志編」と「劇場版 無限列車編」を見ました。
非常に面白かったので、感想を書きます。
はじめに
原作は未読です。
テレビで『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』が放送されるにあたり、今までの流れをおさらいしましょうということで放送された「兄妹の絆編」「浅草編」「鼓屋敷編」「那田蜘蛛山編」「柱合会議・蝶屋敷編」そして「無限列車編」を見ただけの、完全な"にわか"です。
上述のアニメ以外の情報は、なにも知らないので、それを踏まえていただければ幸いです。
現代性と昭和の考えが混在する世界観
見始めてからは、とにかく非常に新鮮に感じました。
既に各所で取り上げられたセリフなので、恐縮ですが「息が苦しい、凍てついた空気で肺が痛い」を実際に聞いたときは、
ほんとに言ったー! でも、想像していたより説明口調じゃない!
と、真剣なシーンではありましたが、思わず笑ってしまいました。
この他にも「頑張れ炭治郎頑張れ」など炭治郎は内心での独白が多く、特に鼓屋敷編までは、ほぼ単独行動なので、ずっと炭治郎による説明を聞かせられることになります。
鱗滝左近次の教えを受けるときに至っては、日記を綴ったり、眠りつづける禰豆子に語りかけたり、とにかく説明しつづけます。
非常に分かりやすいので、なんだったら手元でスマホを操作しながら、片目で見ても話を追えるので、イージーなコンテンツだと感じました。
ただ、その一方で「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」など、昭和テイストのあるセリフもあります。
これは、最初に聞いたときは奇妙に感じました。
感覚では『鬼滅の刃』は、子どもに人気のある作品なので、こういった昭和感のある、根性論的なフレーズはないものと思い込んでいたのです。
おとなが言うと鼻につくけれど、自分たちと同じ身長の炭治郎が言うと、しぜんに受け入れられる。そういうことなのかもしれませんね。
ポジティブなマインドと果てしのない慈しみ
アニメ化を受けて一斉を風靡したマンガ『進撃の巨人』と対をなすように、『鬼滅の刃』は鬼という、常人では太刀打ちできないほど強大な敵と向かいあう物語ですが、主人公のスタンスは、驚くほど真逆です。
『進撃の巨人』のエレン・イェーガーが「この世から一匹残らず駆逐してやる!」と復讐心をあらわにして息巻くのに対し、竈門炭治郎の目的は、あくまで妹を人間に戻すことであり、ときには倒した鬼が、陽の光を浴びて消えゆくなか、その手を握りしめたりして、
仏様か
と突っ込みたくなるほどです。
「無限列車編」で炭治郎の、無意識領域が描かれましたが、その様子は、まさにウユニ塩湖。この清らかさが、いったいどのように育まれたのでしょうかね……。
人間の心の機微が美しい
主人公、竈門炭治郎の目的は妹を人間に戻すこと。
すべての鬼は、鬼舞辻無惨に血を与えられて鬼になった。
鬼舞辻無惨の配下には十二鬼月という、12人の鬼がいる。
鬼殺隊という政府非公認の鬼狩りの組織がおり、柱という最強の剣士が揃っている。
物語の核は分かりやすいと言えるでしょう。最終的に鬼舞辻無惨は討たれるでしょうし、禰豆子は人間に戻れるのでしょう。
そうと分かっているのに、それでも夢中になって「続きが気になる!」と見てしまったのは、人間の心の機微がとても丁寧かつ優しく描かれているからでしょうか。
『鬼滅の刃』を見ていると、人間という種の存在の可能性や、その素晴らしさが胸を打ちます。たとえば鱗滝左近次がお館様あてに出した手紙の一節「もしも禰豆子が人に襲いかかった場合は、竈門炭治郎及び鱗滝左近次、冨岡義勇が腹を切ってお詫び致します」は衝撃的でしたね。
鱗滝左近次はおろか、冨岡義勇も、まさかここまで兄妹のことを想っているとは分かりませんでした。
無限列車編に感じた居心地の悪さ
「蝶屋敷編」までを、非常に楽しく見たので「無限列車編」に対する期待値は、かなり高かったです。
興行収入400億円を越え、日本歴代興行収入第1位に輝いた『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」、それがどれだけのものか、期待に胸を膨らませながら見ました。
ですが、
見終えたときには疑問符しかなかったです。
夢を操る下弦の壱こと魘夢との戦い、これは良かったです。
乗客を守っていただけの煉獄杏寿郎と禰豆子、そして眠りながら戦っていたら我妻善逸には、もう少し出番があっても良かったのでは? と首を傾げつつ、過去との決別を迫られる炭治郎には胸を締め付けられました。
夢の世界で自決すると現実世界に戻ってくることができる。これを逆手に取った敵の奇策によって、現実世界において自らの首を刎ねようとする炭治郎を、嘴平伊之助が制止する場面は、特に良かったですね。
しかし、猗窩座が現れてからは、
その、
なんと言えばいいのでしょうか?
開いた口が塞がらなかったです
タイトルが無限列車編なのに、実は無限列車の魘夢は噛ませ犬に過ぎず、真のボスは猗窩座だった! というのは、言ってみれば表紙詐欺ではないでしょうか?
さらに、猗窩座を倒せなかったのに、こちらは煉獄さんを失ったというのが不可解です。煉獄さん、殺す必要あったのでしょうか?
ファン人気が高いので、よっぽど良いキャラなのだろうと思っていました。しかし、少なくともわたしは、ちょっと展開が早すぎて煉獄さんに思い入れを抱けませんでした。
敢えて言うなら柱合会議において「裁判の必要などないだろう! 鬼を庇うなど明らかな隊律違反! 我らのみで対処可能! 鬼もろとも斬首する!」と脳筋っぷりを見せつけつつも、お館様の考えを聞いても「人を喰い殺せば取り返しがつかない!! 殺された人は戻らない!」と反論する姿勢には、少し見直しました。
てっきり「お館様がそう仰るなら、その娘は見逃そう!」と言うかと思ったので、煉獄さんに対するイメージが変わった瞬間でした。
しかし、炭治郎目線では、頭の固い柱であるわけで、この短い時間での心の変わりようには、やや違和感を覚えました。あるいは、心を変えさせるほど煉獄さんが快活で、どこまでもまっすぐに生きている男だと分かったからかもしれませんが……。
話を映画に戻しましょう。
本作が『鬼滅の刃』という全23巻なる物語の、あるひとつの場面を切り出したものとするのであれば、この物語構造は納得です。
でも、日本アニメを代表する一作かと言われたら首を傾げざるを得ません。
だって、話がまとまっていないからです。
バッドエンドじゃないですか。
終わりに
「劇場版 無限列車編」には釈然としないものを感じますが『鬼滅の刃』全体としては非常に面白いですし「テレビアニメ版 無限列車編」や「遊郭編」は、とても楽しみです。
あるいは、続きが気になって仕方ないので、アニメを待ってられず原作を読んでしまうかもしれません。