雲上四季

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何を以ってフェアとするか、および倒叙の魅力

 前回のエントリでは一戒・一則は「現代ミステリの条件」でしたが、新たに追加されたエントリにおいては「フェアな推理小説の(必要)条件」と言いなおされています。何事もなかったかのように「現代」といういつからいつまでを指すか極めて不明確な言葉が外され、「フェアな」という形容詞が加えられているけれど、些末なことなのでここでは特に追求しません。
 今回は主に3点について。まず最初に、秋山の言説が曲解されている可能性があるのでその補足をして、後はタイトルに挙げた2点について。

「だから、」に関して

 十戒と二十則がフェアであるために作られた指針であることを踏まえ、かつミステリが必ずしもフェアでなくとも構わないという2点を承知していないと、突拍子もないことを言うはめになると思います。なにも清涼院流水竜騎士07を引き合いに出す必要はないでしょう。80年以上も前にアガサ・クリスティが『アクロイド殺し』を書いたときから自明なのですから。

 これは秋山が昨日、書いたエントリからの引用ですけれど、これは、

流水大説竜騎士大説などを見るに、現代の推理小説(大説)では、十戒や二十則は完全に無視して書いても、(激しい批判を受けながらも)ヒット作になりうることが分かる。

 を受けて書いたものであって、つまりクリスティの『アクロイド殺し』のときから、十戒と二十則がミステリを書くにあたって絶対に厳守しなければならないルールではなかったというのが主張です。ここまで補足。
 ここからが疑問の提示です。

 十戒と二十則がフェアであるために作られた指針であることを踏まえ、かつミステリが必ずしもフェアでなくとも構わないという2点を承知していないと、突拍子もないことを言うはめになると思います。なにも清涼院流水竜騎士07を引き合いに出す必要はないでしょう。80年以上も前にアガサ・クリスティが『アクロイド殺し』を書いたときから自明なのですから。

だから、叙述トリックはフェアな推理なんですよ。

 ここで用いられている「だから」が不可解です。
 常識的に考えると「だから」は接続詞なので、秋山の言説を、直前までid:kaienさんに対して書いていたid:sirouto2さんが、自論の補強とするために引用しているものと思われます。でも、まあ、そういうのはさておき、いろいろ空気を読むと接続詞としてではなく「だからさっきから言ってんじゃん」的な使われ方をしているのでしょう。
 けれど、前述の通り、秋山の主張は、十戒と二十則がミステリを書くにあたって絶対に厳守しなければならないルールではなかった、というものです。誰も叙述トリックの話などしていません。勝手に論旨を挿げ替えるのはご容赦いただきたいと思います。また、(註:クリスティ『アクロイド殺し』のネタバレを含むので反転しておきます)安易な気持ちで引用し、クリスティ『アクロイド殺し』が叙述トリック物であるとネタバレするのもお控えいただくよう切にお願いします

何を以ってフェアとするか

 さて、ここからは叙述トリックがフェアかどうかを検討してみたいと思います。
 まずsirouto2さんの主張を再確認しましょう。

  • フェアな推理小説の(必要)条件は「推理に必要な情報が読者に対して十分に示されている」
  • 偽の記述をしていないのが正当な叙述トリックだとすれば、一戒・一則を守っていれば叙述トリックはフェア。

 この2点がsirouto2さんの意見の中核と思われます。多分。
 で、ここから先は一戒・一則を満たしてしまうと、もはや叙述トリックは作ることが出来ない。もしくは叙述トリックにしようとすれば一戒・一則を破ることになるという論理展開をしたいと思います。
 叙述トリックの代表格に男女トリックというのがありますけれど、あれって作中の登場人物からすれば一目瞭然ですよね。薫さんが男性か女性かなんて一目で分かります。けれど、読者視点では分かりません。
 たとえば犯人が女だと分かっている事件で、容疑者が田中一郎、田中次郎、魔王の3人だとしたら、登場人物にとっては犯人は自明ですけれど、読者にとっては謎ですよね。

読者の知らない手がかりによって解決してはいけない。

事件の謎を解く手がかりは、全て明白に記述されていなくてはならない。

 はい、どうでしょうか。満たしていませんよね? どうやら登場人物は犯人が誰だか分かっているみたいですが、読者視点では分かりません。
 ここで正解を明かすと、実は魔王の正体は高町なのはでしたというくだらない落ち。つまり、魔王という呼称から男性であると思わせておいて、実は女性でしたという男女トリック。
 まあ、こんなくだらない例を示すまでもなく、叙述トリックは他のアリバイや密室などと異なり、トリックとしての次元が違うので、通常のミステリを対象とした一戒・一則などで拘束することが出来ません。何故なら、犯人が探偵に対して仕掛けるのがトリックであり、作者が読者に対して仕掛けるのが叙述トリックだからです。「推理に必要な情報が読者に対して十分に示されている」が(必要)条件となっているフェアな推理小説において「推理に必要な情報を読者に対して隠蔽する*1叙述トリックがフェアになどなるわけがありません。前提条件が違うのですから土台、無理な話ですね。
 叙述トリックをフェアにしたいのであれば、ミステリの一戒・一則ではなく叙述ミステリの一戒・一則が求められるでしょうね。

倒叙の魅力とは何か?

ちなみに、倒叙形式では、解決編に相当する部分が冒頭に来てしまいます。しかし、倒叙形式では、「問題→解決」の順番である必要はなく*2、フェアな推理が可能だと考えます。順番が逆転していても、情報の提示は必要ですし、逆に言うと、冒頭に犯人が分かっていても、その過程の情報が欠落していた場合、アンフェアとなりえます。

 これに関してはまったく意味が分かりません。
 どうして「問題→解決」の順番でないことで、フェアな推理が可能なのか? どうして過程の情報が欠落しているとアンフェアなのか? まるで意味が分かりません。倒叙物においても「問題→解決」という展開は変わりませんし、情報が欠落しているのはミステリとして当然のことです。
 これはsirouto2さんと秋山の倒叙物に対する認識がそもそもずれているように思うので、そこから始めたいと思います。

通常の推理小説では、まず犯行の結果のみが描かれ、物語の後半で探偵によって犯人と犯行の様子が暴かれる。しかし倒叙形式では、はじめに犯人の側から犯行の様子が描かれ、その後、探偵の側から捜査の進展や真相の看破に至る過程が描かれる。読者には予め犯行過程が判っており、犯人側のどのようなミスから足がつくのか、その論理とサスペンスが興味の対象になる。また犯人が最初から判っているので、犯人側の内面描写を丹念に行える利点や犯人対探偵の一騎討ちといった楽しみがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E7%90%86%E5%B0%8F%E8%AA%AC

 ミステリで最初に犯人が明かされ、主に犯人の視点で物語が展開されていくタイプのもの。アリバイ崩し。
 一般にはテレビドラマ『刑事コロンボ』『古畑任三郎』でおなじみ。
 普通のミステリーは、まず事件が起り、警察あるいは探偵役が捜査に乗り出し、犯人の行動や動機を推理して事件を解決する。しかし、倒叙もののミステリーでは、まず、前半で犯人が完全犯罪を計画する形であらかじめ手の内を明らかにする。その後、計画を実行し、それが成功したかに見えた時点で、今度は逆に警察や探偵の側が捜査を開始して、犯行を暴き、事件を解決する。つまり、ストーリーの展開の仕方が普通のミステリーとまったく逆なので、倒叙とか、倒叙推理小説というわけである。(権田萬治・新保博久監修『日本ミステリー辞典』より)

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%DD%BD%F6

 Wikipediaはてなキーワードから引用させていただきましたが、秋山の倒叙物に対する認識もだいたい上記の通りです。
 フーダニット、つまり犯人は誰か? というのが謎の本質になっている通常のミステリと異なり、多くの倒叙物においてはハウダニット、つまり犯行はどのようになされたか? というのが謎の本質になります。この犯行方法は「問題→解決」の順番で明かされますし、犯行という過程の情報を欠落させることで倒叙物は成立します。sirouto2さんの言う「問題→解決」が逆転し、過程の情報を余すところなく明示しているもの、それは倒叙ミステリではなくクライムノベルではないでしょうか?

ところで

 なんとなくの印象ですけれど、sirouto2さんは本格も叙述も倒叙もあまり読んでいない方のように思います。
「ミステリを読んでるやつ以外、ミステリの議論は禁止な!」というのは秋山のもっとも嫌うところであり、逆におおいに議論し互いに勉強するのが好ましい状態だと思っているのですが、いくらなんでも話がずれすぎかなという気がしています。気のせいですかね……?

追記

 その2に関しては単にレトリック上の問題なのでスルーするとして、その1に関して。
 当時に関して秋山は生まれておらずあまり言えることがないので、まずはいくらか引用させていただきたく思います。

1926年 『アクロイド殺し』を発表。大胆なトリックをめぐって、フェアかアンフェアかの大論争がミステリファンの間で起き、一躍有名に。また、母が死去する。この年アガサは謎の失踪事件を起こす。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3

制定したヴァン・ダイン自身は原則論として用いており、例えば、第2項(いわゆる「叙述トリック」の否定)を元にアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』の批難の急先鋒となったのは有名である。しかし逆に言えば「叙述トリック」が既にトリックの一ジャンルとして確立している以上、やはり指針的な意味合いでしかない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%89%87

ミステリまがい小説に物申す形で書かれたものだと考えると、この一見すると杓子定規なルールの印象が変わってくるのではないでしょうか。いわば、先生が全然言うことを聞かない悪ガキに切れた状態。「普通はここまで言わんけど、お前らはこれくらい言わなきゃわからないだろ!」*3

http://blog.goo.ne.jp/take_14/e/f96a5c46620ff063d14addf6cac3a63b

 以上を踏まえてうえでid:trivialさんのご指摘を見てみましょう。

アクロイド殺し』が発表された1926年当時、まだ十戒も二十則もなかったので、「1926年当時、十戒・二十則がミステリを書くにあたって絶対に遵守しなければならないルールだった、ということはない」という主張なら、反対する理由はない。ただ、後に十戒・二十則という形で明文化されることとなるミステリの暗黙のルールに『アクロイド殺し』が違反していたことは明らかだ。その「暗黙のルール」が当時のミステリ界において絶対に遵守しなければならないほど強力なものではなかった、と言いたいのなら、単に違反例を挙げるだけでは十分ではない。

 Wikipedia等引用部分を鑑みると、実際には「『アクロイド殺し』はその刊行後に発表された二十則に反している」というより「『アクロイド殺し』が違反に触れるように二十則が作られた」と指摘していた方がより正確でしょう。また、ノックスとヴァン・ダインの両人が後に十戒・二十則を破っていることから、これらが当時において絶対に遵守しなければならないルールでなかったことも自明でしょう。これに加え、

もちろん、「十戒」を意図的に破ったり、「十戒」の記述を逆手にとってトリックとしたりする名作も数多く存在している。ノックス自身「十戒」を破った作品を発表している。また十戒の前置きでどうして自分でこんなことを考えたか分からない旨を述べているなど、ヴァン=ダインと異なり、本当のルールとして書いたというよりはノックスのユーモア精神から冗談半分に書かれたとする見方も多い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

そんな「十戒」「二十則」ですが、では誰が守っていたのでしょうか? 実際のところ、当時も今も、欧米でも日本でも、このルールを気にしていた作家は殆んどいなかったというのが現実です。

http://blog.goo.ne.jp/take_14/e/f96a5c46620ff063d14addf6cac3a63b

 このような記述もありますし「暗黙のルール」がギアスのような絶対遵守のちからを有してなかったと主張するに余りあると思います。
 とは言え、最初からこのように参考文献的なものを示さなかったり、誤解を招く表現をしてしまった非もあるので、問題箇所に関しては素直に謝っておきます。ごめんなさい。
 訂正は特にしません。いい言葉が思い浮かびませんし、この追記が代替機能を果たしてくれるでしょう。

追々記

 sirouto2さんが「付記2・叙述と倒叙について」が書かれたので、それについて。
 現代ミステリおよび倒叙に関してはレトリック上の問題のようなのでスルーします。
 以下、叙述について。

一戒・一則を満たしてしまうと、もはや叙述トリックは作ることが出来ない。もしくは叙述トリックにしようとすれば一戒・一則を破ることになる

「推理に必要な情報が読者に対して十分に示されている」が(必要)条件となっているフェアな推理小説において「推理に必要な情報を読者に対して隠蔽する(偽の記述はしていない)」叙述トリックがフェアになどなるわけがありません。

違います。叙述トリックを用いない通常の推理小説においても、直接犯人が分かる形で、情報が示されているわけではありません(「トリック」ですから)。逆に、叙述トリックを使っていても、読者が推理可能なように、情報を示すことができます。
元記事の例で言えば、犯人が女性で、A・B・CのうちCのみが女性で、従ってCが犯人だという場合、女性だったのはAやBではなくCであることに、必然性がある記述(例えばCに女性に特徴的な振る舞いが見られたなどの伏線)があれば、叙述でもフェアになります。

 ここから先に踏み込むと子どもの喧嘩になりそうですが、言います。
 それはフェアとは言いがたいように思います。
 本を最後まで読んで、男性のように描かれていたCが実は女性だったことに気づき、読み返してみたら確かに女性と思わせる記述があったとします。けれど、それはただ単に「なっ、おれズルしてなかっただろ?」という言い訳に過ぎず、結果論です。何故なら、叙述トリックを疑いだしたら、それこそ無限の可能性を考慮しなければならないからです。叙述トリックは男女トリックだけではありません、時間トリックや空間トリックなどもあります。第一章と第二章の間には実は数年の間があるのかもしれない「何故なら警部のヒゲが伸びていたから!」であるとか、第一章と第二章に連続して出てきた事件現場は実は違うのかもしれない「何故なら第一章では転がっていた壜が、第二章では転がってなかったから!」であるとか。疑いだせばきりがありません。そして無限の解釈・無限の推理を許してしまった時点でフェアと言えるのでしょうか?
 確かに嘘の記述さえしていなければ、そして可能性のひとつとして真相を言い当てられるようにしてさえあればフェアと言うひともいるかもしれません。しかし、実際にそんなミステリがあったらどうでしょうか? 極めて主観的ではありますが、いくらで作者が「一戒・一則は守ってる!!」と主張しても、それはエクスキューズにしか聞こえないだろうと想像します。

あとがき

 さすがにこれ以上、追記を重ねるのも大変なことになりそうなので、ここらで打ち止めにします。
 またお返事しないといけなくなったら、新しいエントリを作ります。
 最後にどうして秋山が一戒・一則を許容できないかについてお話したいと思います。
 と言ってもかんたんです。もし、一戒・一則を満たしたミステリがフェアなミステリという共通認識が広まってしまうと、ミステリの文脈に沿ってフェアだと言えていた作品がフェアでないことになってしまうのです。ミステリは究極的にはエンターテイメントであり、楽しめれば問題ないのです。そして記述や文章といった表面的なもののうえではフェアでなかったとしても、ミステリ読みの心情に訴えかけたり、本格ミステリの系譜に沿っていればフェアと見做されることもあるのです*4。で、そうした優れたミステリが、字面だけでフェアでないと判断されるのはとても悲しいですし、苦痛です。これが理由です。

*1:偽の記述はしていない。

*2:自ら逆転させているのだから当然

*3:この引用に関して。この直前の部分では「B級、C級パルプマガジンにはミステリまがいのみょうちくりんな作品」と書かれているので、そういった作品が引用部分で言う「ミステリまがい小説」です。しかし、ヴァン・ダインアガサ・クリスティアクロイド殺し』をある理由から「ミステリまがい小説」と思っていたとみて間違いないでしょう。理由はもうひとつうえのWikipedia引用部分参照

*4:つまり、小説としてアンフェアでもジャンル小説としてはフェアということです。