1-03-01から1ヶ月間の記事一覧
空。 かつて雲は理論の象徴だった。 哲学者の頭は雲に掛かり、思考よりも実験を重んじる数学者は床に寝そべっていた。 ここにひとりの求道する者がいる。 その者は空を指差している。空を渡る雲を、ではなくそのさらに先。 雲の上に広がる透明の回廊を、その…
紙。 一枚の真っ白な紙に、文字が書き連なれてゆく。 ペンを執っている何者かの性格がよく表れている癖の強い字だ。 妙なところで跳ねたり、点が抜けていたり、要所が省略されている。 白が黒に侵食されてゆく。 やがて紙は文字で埋めつくされた。 紙は裏返…
海。 蒼茫たる海原がどこまでも広がっている。 見渡す限りの水平線。波は低く、穏やかな揺れが足許から伝わってくる。 猫の鳴き声に視線を上に。 海猫。 群れからはぐれてしまったのだろうか。鳥が翼を広げていた。 中天に弧を描く翼に陽光が一瞬だけ遮られ…
影。 本来は光に付き添ってあるはずの影が、それだけである。 どこか遠くから伸びた影が、起き上がって街路樹やビルに姿を変える。 光源がないのに、明暗が見分けられるのは、ここが夢の世界だから。 黒い紙を切り貼りして作ったような、立体感のない影の遊…
雨。 漆黒の闇の中、雨の降る音がある。 雨に叩かれ烏の濡れ羽色に染まった地面は、コンクリートではなく剥き出しの地面。 水溜まりの上を根無しの雑草が過ぎる。 背後に眼を向ける。 紅の鬼が立っていた――否、鬼ではなく、返り血に染まったひとりの男。 男…
「さあ、行くとしようか。無限の空をいざ、羽ばたかん」 紳士は優雅に一礼すると、左肩よりたわませていた翼を繰り広げ、雨を受けとめるように広げていた両腕をそのままに、雲の上より飛び降りた。 右の翼が蒼穹を薙ぎ、左の翼が雲の尾を引く。 紳士は前進し…
記憶のベクトルはすべて過去に向かっている。 止まったまま動かない時計の針。机の奥に仕舞われた未発表で無題の原稿。紅茶の零れた痕が染みになって残っているレシート。 話し疲れたのか、話すことがなくなったのか、いつの間にか訪れている沈黙。無口なふ…
老兵士は刀を手に、寝床を抜けだした。 居間の灯かりは残され、床はすっかり冷たくなっていた。家族の気配はない。 そっと外を伺うと、街の出口に数人の村人と、彼らが守るべき姫が口論していた。村人たちは姫を先に逃がそうとしており、姫は村人たちを先に…
朽ちない身体。 機械の身体を手に入れて以降、一切の成長変化を終えてしまったぼく。ぼくを置いて流れた時。朽ちてゆく身体たち、忘れ去られてゆく身体たち、残ってしまうぼく。 空を粉雪が舞う。白い飛礫が、朽ちた街に降りそそぎ、朽ちたもの朽ちてゆくも…
午前二時。 都会が放つネオンを受けて、空は仄かな白を残していた。星は見えない。 絶えることのない喧騒が身体を縛りつけ、凍てつく空気が咽喉を冷やし、声を奪う。 「……ッ」 擦れ声しか出ないけれど。 叫びたい名前がある。 北極に立って、その名前を大声…
静かな森に身を清められた番人が立ち尽くしていた。 その前には鉄鎚を持った女性。 「私は風雅使いの朱香月朱巳。これから貴方を完成させるわ」 薄く紅の差された形のいい唇で笑い、朱香月朱巳と名乗った女は鉄鎚を番人の下半身が眠る石塊に振り下ろした。 …
褐色の雑草が敷きつめられた煉瓦の隙間から顔をのぞかせている。 背の高い雑草の幾つかは、煉瓦を割って生えているようにも見えるが、実際は雑草にそこまで力はなく、煉瓦は風化して割れたのだ。 一匹の猫が歩いていた。 闇の雫で染めたような黒い毛並みに、…
「行こう」 その言葉に、五十嵐慎吾は驚いて振り返った。 彼の眼前で、村上智佳はのほほんと立っている。どうして五十嵐が驚いているのか理解できないかのように、首を傾げてさえいる。五十嵐は唾を飲んだ。 「この先にあるのは永遠の砂漠だ。這入ったが最後…
と、迷っているそぶりをしてみたりして。実は答えなど決まっている。ここに呼び出された時点で決まっている。ただ、少しだけ意地悪に。 「条件があるけど、いい?」 「うん」 「自分のことを、私、って言うのはやめて。やめたら、付き合おう」 君は少しびっ…
僕は間をおいて、ゆっくりと答えた。 「多分」 「もう」 なにがもう、なのかは分からないが、君が僕と同じ、美味しいものは最後まで取っておく派であることは、分かった。つまり、美味しいものを取っておくことで、苦しいものから手をつけることに我慢できる…
それはさておき、僕は給食に美味しいものが出たら、最後まで取っておく派だ。大貧民では強いカードを最後まで残しておくし、電車では敢えて最後に乗り込む。勉強は英語から初めて、数学、理科、社会、そして国語だ。 僕は空に目を向ける。 君が見ている空と…
「どうして、空はこんなにも美しいのに、誰も見ようとしないんだろう」 「見てるじゃない。僕らが」 放課後、屋上に呼び出されてみれば、君は金網に引き寄せられるようにして夕陽を眺めていた。西の空に掛かる雲は、下の方が緋色に上の方が藍色に彩られてい…
「嵐は過ぎ去った。船は壊れていない、しかし海図はどこかに吹っ飛んだ」 ぼくは、ぼくに報告した。 「羅針盤は飛んできたワインボトルでずれて、方位磁石もどこかに消えちまった」 ぼくも、ぼくに報告した。 「さて、どうしようか」 ぼくは、困る。 夜の大…
目の前には、延々と連なる茨の道。振り返れば、茨を踏み抜いた足から流れ落ちた血が、点々と続いているのがみえる。もうふくらはぎから下は、すっかり血にまみれていた。一歩、踏み出すたびに突き抜ける激痛、噴きだす血と共に力も抜けてゆき、膝を突いてし…
「時よ止まれ、時よ止まれ。今この瞬間よ、永遠となれ!」 高らかに、朗らかに。声を張り上げて、歌いながら、しなやかな指を鍵盤に叩きつける。 打鍵、打鍵、また打鍵。 どう見てもデタラメにしか打っていないのに、旋律は次から次へと繋がり。さながらエネ…
現世と電子の海の境い目を任せられし守護竜。その竜は境界線を意味するボーダの名で呼ばれることもあれば、陰陽師が使役する式神になぞらえて夢現式と呼ばれることもあれば、ただ単にケモノと呼ばれることもある。 さて、ここにひとりの男がいた。彼は現世の…
この世をどこまでも東に歩いたところと、どこまでも西に歩いたところに雲を吐きだす工場と、それを世界中に散らす巨人がいる。巨人は工場から濛々と吐きだされる雲を掻き集める。左手に持った雲の塊から無造作に切れ端を千切り、東の巨人は西の方へと、西の…
夜も更け、馴染みのラジオ番組も終わりを告げる刻限――娘は、静かに自分の身体を抱きしめた。 その晩もそれはやってきた。心の奥底に封印しきることができず、漏れ出してしまう誰かを恋しいと思う気持ち。独りでいることが我慢できなくなる夜がやってきた。 …
「それは甘い展望だと言わざるを得ないな」濃紺のコートをひるがえして男は言った「君はその鋼鉄の精神と不屈の魂で僕を説得した。僕が君の手駒でいる限り君の進む道は、しっかりと舗装され、石橋は叩く必要もない。しかしね、牙は研ぎつづけなければ、いず…
「案ずることはない、我がそう安々と死ぬわけがないではないか。今は暫しの小休止を取っているだけじゃよ」老婆は口元を歪めつつ、嘯いてみせた。 その堂に入った仕草を見て、殺伐屋はスゥと目を細めた。蒲団の中に痩せ細った身体を、横たえている命の恩人は…
嘘吐きは鷽、啄木鳥、吐きつつ嘘突き筒。 筒抜け、嘘衝き、騙し騙され、来つ尽き。 撞きつつ嘘跳ね、落ち抜け穴空き、虚き。 移ろき、現、銃うそ突き付き、宇楚通来。 月喫、来つつ、詰着つつ、嘘突き突付き。 突付き付き付き突付き付き、嘘嘘嘘吐き。 尽き…
「嘘だ……」 魔法使いは呟いた。 伝説の剣を携え、伝説の鎧に身を包んだ勇者が、魔王の一撃を受けて倒れていた。その隣には身を呈して勇者を守ろうとした若き僧侶も倒れている、聖水を振り掛けた彼女に魔王は触れられないはずだった。魔王の背後に回り、勇者…
新婚の夫婦が寝床を共にしている。 妻が囁く。「ねえ、貴方。私たち、夫婦の間では一切、嘘をつかないようにしましょうね」 妻の髪を撫でていた夫は、その言葉にどう返すべきか迷うように手を開いたり閉じたりしたが、やがて「うん、そうしよう。僕は君に嘘…
そこは嘘をつくと殺される村。遠い昔にやってきた商人が置いていった「嘘発見器」が村の真ん中に鎮座していて、ひとつでも嘘をつくとすぐにそれが反応し、すぐに村人が集まってきて、すぐに殺されて家畜の餌にされてしまう。 そうと知らずにやってきて、砂嵐…