1-01-01から1年間の記事一覧
「それでも、行くと言うのか?」 「ああ」と彼女は迷いもせずに頷いた。「ずっと、無限の地獄だと思っていた。どこまでも続く、果てしなく、永遠に。終わらない責苦から顔を背けることも、自らこの命を絶つこともできず、まるで頭を掴まれて水の中を無造作に…
世界は無数の物語で出来ている。それも単純な二次元の座標軸上に存在しているのではなく、有機的に繋がりあう構造物の中に存在している。ボクもキミもお互いに知り合うことができるのは、無数の物語の中のたったひとりだけで、無数の分岐し無数に並行する物…
北方の空より黒き十字架が攻め込んできていた。無数のそれらは、月の光も星の光も遮り、地上に影を落とす。黒き十字架によって作られる影の中には虚無しかない。闇夜が持つ怪しげなる力をかき消す、幻葬の力が南へと侵攻していた。 空を埋め尽くす十字架を、…
たった一つの織物のために、方々から寄せられていた因果の糸が解かれようとしていた。織物は既に完成している。それは見事な、それ以上は望むべくもない芸術品にして創作品を形成している。糸は各々、その役目を十全に果たした。後はもう、それぞれの運命に…
疾風が舞う。 激しい暴力性を伴って、駆け抜けた剣先は、確かに避けたはずなのに脇腹に血の花を咲かせた。痛みよりも驚きが先に、全身を駆け抜ける。避けたという自身の意識に誤りがあったのか、理想の動きと現実の動きとの間に致命的な断裂があったのか、そ…
あすの君が微笑む。 その横顔が見えそうで見えない。一歩、前へと進み、君の隣に立ちそのまま正面へと回りたい。でも、前へと進もうとするこの両足は、深く絡みついた蔓にその動きを完全に止められてしまっている。アアと気づく。ここには目に見えない壁があ…
歴戦を越え、今や熟達した騎士となったヴィーヤは、戦場で敵と剣を交えながら冷静に計算をしていた。自分の体力、味方の総数、敵の総数、剣の強度、残された命運。敵をひとり斬り伏せるたび、敵の攻撃をひとつ避けるたび、数値は変動し、ヴィーヤに残された…
異国の楽器が奏でる音楽と、異国の香料が醸しだす未知の雰囲気。 テントの中は熱気と狂騒とに支配されていた。お忍びで城下に降りてきた国王は、思わず口元に手をあて感嘆の声を漏らした。人波に押され、国王は自身と同じようにみすぼらしい格好をしている近…
深窓の令嬢を揶揄していたかつての自分が恨めしい。なんて世間知らず。今まで自分を包んでいた生暖かいぬるま湯のような闇は、吐き気がするほど居心地が悪くなったと言うのに、未だに自分はここから抜けだして、双眸を刺し貫くであろう朝陽を直視するのが恐…
ムゲンのカナタへ。 いつかどこか夢の中、遠い約束、記憶の奥に眠っている不思議な言葉、一息で放てる呪文、やさしい息吹、胸の中に吹きこむ風、蒼穹の想い出、追いかけていた後姿、隣に立ってはじめて見ることができる横顔、透明な階段、頬を撫でる夜風、冷…
その時代、民兵は肉の壁の代名詞であった。隊列の先頭に配置され、敵軍から放射される銃弾を消費させるためだけの存在。かつて自分たちの先祖が愛した、今は失われし祖国のために、彼らは前進する。 民兵のひとり、名もなき彼は本を片手に戦場に赴いていた。…
それは危険な思考。魔法使いの弟子は師匠の持ち物に手を出す。それは分不相応な思考。弟子は持ち主以外にはけして抜けない刀を掲げる。それは力不足な思考。弟子の口から紡がれる震える言霊、揺れる呪文の言葉。それは後戻りの効かない思考。弟子の手にこも…
樹上にて佇むミネルヴァに、どこかから現われた夜色の布が巻きついてゆく。長い布がミネルヴァの肢体を幾重にも包みあげ、その眩いばかりの身体を隠し、輪郭を曖昧にしてゆく。ただ一点、月と同じ色を持った左目だけが紫黒から覗いている。 夜色の衣は、ミネ…
肌寒さに何かを感じたのか夕賀恋史は、立ち上がってカーテンを開けた。そこに広がっているはずの朝焼けは、分厚い雪と風の壁に埋め尽くされている。夕賀恋史は目を細め、後ろを向いた。 「七瀬君」 八雲七瀬はベッドの中で安らかな寝息を立てている。 「七瀬…
「はあ。壮君、君もか」 病床日誌を記していた工藤琳瑚は、サイドテーブルの上にノートと三色ボールペンを置きながら「はあ」と溜息をついてみせた。 その病室にはベッドが六つあったが、現在の利用者は工藤琳瑚ひとりしかおらず、広い病室は閑散としていた…
三室は生まれた、三室は放たれた、三室は泳いだ、三室は至った、三室は出会った、三室は繋がった、三室は成った、三室は丸くなった、三室は産まれた、三室は産声を上げた、三室は抱かれた、三室は洗われた、三室は寝かせられた、三室は祝された、三室は乳を…
涸れても枯れない花を咲かせよう、揺れても折れない花を咲かせよう。けして揺るがない信念、折れない決意、刈れない萌芽、狂おしく咲き誇る夏。東から昇る太陽に向けられた、大きな笑顔。歴史と経験とが保証する、確かな強さ、違えない心、紛わない魂。寄り…
盲目のピアニスト、グランギニョルは両の手を大きく持ち上げると、勢いよく鍵盤の上に叩きつけた。鋭い打鍵がパイプを伝い、太く伸びた音が地上を掃討するように教会内を満たす。高さ四十五メートル、幅六十メートル。想像を絶する鍵盤楽器が、六万本以上も…
涙の落ちる音が聞こえた気がして、死神は振りかえった。鎌は目を赤くしていた。 「どうしたの?」 満点の星空を望みながら、ひげ面の男は顎を掻いた。 「なあ、息子よ。私たち親子がこの無人島に漂泊してから、もう幾つの夜が過ぎただろうか」「判らないよ父…
そして春は去った。 超短編と銘打たれた九十篇の作品は、過ぎ去った。 しかしそれは終わりを意味しない。 雲上四季は終わらない。 春が終われば、夏が始まるだけだ。 今度の季節は少し手強い。 お題が存在するのだ。 提示されたお題に従って書く必要がある。…
涙の落ちる音が聞こえた気がして、死神は振りかえった。鎌は目を赤くしていた。 「どうしたの?」 「いや……もう、これで最後なんだなって」 「そうね」 死神はふふっと笑うと、鎌の手を取った。 「そろそろ、はじめましょう」 「何を言ってるんだ? 終わらせ…
空。 かつて雲は理論の象徴だった。 哲学者の頭は雲に掛かり、思考よりも実験を重んじる数学者は床に寝そべっていた。 ここにひとりの求道する者がいる。 その者は空を指差している。空を渡る雲を、ではなくそのさらに先。 雲の上に広がる透明の回廊を、その…
紙。 一枚の真っ白な紙に、文字が書き連なれてゆく。 ペンを執っている何者かの性格がよく表れている癖の強い字だ。 妙なところで跳ねたり、点が抜けていたり、要所が省略されている。 白が黒に侵食されてゆく。 やがて紙は文字で埋めつくされた。 紙は裏返…
海。 蒼茫たる海原がどこまでも広がっている。 見渡す限りの水平線。波は低く、穏やかな揺れが足許から伝わってくる。 猫の鳴き声に視線を上に。 海猫。 群れからはぐれてしまったのだろうか。鳥が翼を広げていた。 中天に弧を描く翼に陽光が一瞬だけ遮られ…
影。 本来は光に付き添ってあるはずの影が、それだけである。 どこか遠くから伸びた影が、起き上がって街路樹やビルに姿を変える。 光源がないのに、明暗が見分けられるのは、ここが夢の世界だから。 黒い紙を切り貼りして作ったような、立体感のない影の遊…
雨。 漆黒の闇の中、雨の降る音がある。 雨に叩かれ烏の濡れ羽色に染まった地面は、コンクリートではなく剥き出しの地面。 水溜まりの上を根無しの雑草が過ぎる。 背後に眼を向ける。 紅の鬼が立っていた――否、鬼ではなく、返り血に染まったひとりの男。 男…
「さあ、行くとしようか。無限の空をいざ、羽ばたかん」 紳士は優雅に一礼すると、左肩よりたわませていた翼を繰り広げ、雨を受けとめるように広げていた両腕をそのままに、雲の上より飛び降りた。 右の翼が蒼穹を薙ぎ、左の翼が雲の尾を引く。 紳士は前進し…
記憶のベクトルはすべて過去に向かっている。 止まったまま動かない時計の針。机の奥に仕舞われた未発表で無題の原稿。紅茶の零れた痕が染みになって残っているレシート。 話し疲れたのか、話すことがなくなったのか、いつの間にか訪れている沈黙。無口なふ…
老兵士は刀を手に、寝床を抜けだした。 居間の灯かりは残され、床はすっかり冷たくなっていた。家族の気配はない。 そっと外を伺うと、街の出口に数人の村人と、彼らが守るべき姫が口論していた。村人たちは姫を先に逃がそうとしており、姫は村人たちを先に…
朽ちない身体。 機械の身体を手に入れて以降、一切の成長変化を終えてしまったぼく。ぼくを置いて流れた時。朽ちてゆく身体たち、忘れ去られてゆく身体たち、残ってしまうぼく。 空を粉雪が舞う。白い飛礫が、朽ちた街に降りそそぎ、朽ちたもの朽ちてゆくも…