記憶のベクトルはすべて過去に向かっている。
止まったまま動かない時計の針。机の奥に仕舞われた未発表で無題の原稿。紅茶の零れた痕が染みになって残っているレシート。
話し疲れたのか、話すことがなくなったのか、いつの間にか訪れている沈黙。無口なふたりの静かな時間。
今はもうすべて懐かしく、遠い昔の色褪せつつある思い出になっている。
それを悲しいと思うと同時に、当たり前なのだと思い、それでもやはりと頭を振る。
どうしようもない。
それは判っているけれど。あのとき飲んだ、紅茶をあのときと同じように飲む。
ふと思い出して、携帯電話に残っている留守番電話を再生する。なんと言うこともない、ただの伝言。愛の言葉を囁いているわけでもない、業務連絡のような……それも、途中で切れてしまっているもの。
それでも。
飲み終えた紅茶をテーブルの上に戻して一息つく。
どんなに頑張ってもこの紅茶の味と思い出は、けして忘れられないだろう。