雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

廃墟について思うことその他の物語

 廃墟が好きです。
 必要とする人間がいなくなったのか、それとも持ち主がいなくなったのか。建物は維持を求めます。ひとの手を離れた建物は、やがて朽ち果て、崩落し、自然の浸食を受け、埋没していきます。
 廃墟のことを思うとき、いつも秋山は液体と容器を想像します。廃屋、廃線、廃校……廃墟とはある種、液体を失った容器のようなものではないでしょうか。残骸は、まだそこに残っていても、本来、そのなかにあるべき何かは、もう失われてしまっているのです。液体が零れてしまったから容器が朽ちたのか、容器が壊れたから液体が流れてしまったのか。
 ここで、唐突に、小説について。
 小説という概念は、ときに空想の液体で満たされた容器であるかのように思います。本に書かれている文字の塊は、インクの染みに過ぎず、それ自体はなんの意味も持ちません。ただ、言語を解し、物語を再構築することのできる読み手が、読んだときにのみ、容器は液体で満たされるのです。もしくは、読み手が存在することで、物語も存在しうるのです。
 廃墟を見るとき、秋山は、かつてそこに在った液体、かつてそこに在った物語を思います。誰が生まれ、誰が暮らし、誰が愛し、誰が死んだのか。そこにかつて在った物語を、それがどうしていま失われてしまっているのか、どうして廃墟となってしまったのか。想像することで、よみがえるように思うのです。現実に存在していたはずの液体が、廃墟という朽ちた容器を介し、空想の液体として秋山の内側に、再度、存在を始めるように感じます。
 丸田祥三の『棄景』や『めくるたび』を再読したら、ちょっと書きたくなったので書きました。