雲上ブログ〜謎ときどきボドゲ〜

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1035『告白』

告白

告白

 一切は空。
 途中までは共感したり同情したり、とても面白おかしく読むことができた。しかし、半ばまで読んだところで、絶望した。絶望したという言葉は、みだりに使っていいものではないが、それでもそのときの秋山が「できない」と感じた驚き、そして「なぜできないのか」という怒りのような悔しさのような感情は、やはり絶望と形容するに相応しいのではないだろうかと思う。なにに絶望したかと言うと、現実の世界に生きる秋山は、どう足掻いても文章の中に生きる城戸熊太郎には、メッセージを伝えられないという事実に、改めて気づき、驚き、怒り、悲しんだ。なにを伝えたかったかというと熊太郎が、間違っているということを、である。
 この小説はなかなか巧く作られており、一見、明治に生きる熊太郎の一人称のようだけれど、「平成の現代においても、かようなことは起こるものである」だなんて、どう見ても町田康のコメントとしか思えない一文がさらりどころかじゃかじゃかと入っている。まあ、それでなくとも、熊太郎以外の一人称もあるので、わりと統一はされていない。そういったところを踏まえて考えてみると、この文章は、基本的に、町田康が「わしこそは城戸熊太郎なり!」と、自らに熊太郎の魂を乗り移らせて書いているような気がする。けれど、熊太郎になったつもりで独白していながら、たまに素の自分もぽろっと出てしまうことがある、と言うような。この構造はとても面白く、町田康のコメントは現代における読者の視点をも兼ねているのだ。つまり、東京の大学に通っている坊っちゃんが、田舎の女の子に手を出して本気にさせておいて無碍にする、というのは今の世でも起こりそうなことで、いかにも読者が突っ込みそうなところで町田康も突っ込んでおり、ここで読者の言いたいことと町田康の言っていることがイコールとなる。簡略化すると、読者=町田康。そして前述のように、町田康は自らに熊太郎を乗り移らせているだろうから、町田康=熊太郎とも言える。と言うことは、読者=町田康=熊太郎。従って、感情移入しまくり。
 とは言え、それは前半だけだ。前半は確かに共感する。思っていることを、うまく伝えることができない上に、自意識過剰で、だからディスコミュニケーションが発生し、周囲と齟齬をきたしてしまう。そういうのは誰だって遭遇したことがあるだろう、子どものころは。でも年をとるにつれ、理解するはずだ。本当はそうではなかったということに。
 作中、熊太郎は自分は思弁家であると繰り返す。そしてそれを立証するように、凄まじい量の一人称が展開される。本書は670ページもあるハードカバーだが、きっと主人公の独白である地の文の方が、会話文より圧倒的に多いに違いないと思わせるほど、熊太郎は考えに考えに考えまくっているのである。がしかし、その思考は理路整然としているようで、論理的からは程遠いのだ。と言うか、言い訳にしか聞こえない。あがり症で臆病者の彼が、つい、あることないこと言ってしまい、言った後に「いやいや、今のは、こういう理由で言ったわけよ」と言うのだが、それがあまりに情けない。しかもだ、666ページを読んで、秋山は文字通り愕然とした。開いた口がふさがらなかった。

 弥五郎の言ったこと、すなわち、頭で思ったことが言葉にならず自分のなかから外に出て行かないことに熊太郎は長いこと苛立ち、また、苦しんでいたが、しかし、そのことを他人に気取られることはないはずだ、と思っていた。

 二重に頭に来た。ひとつは熊太郎が思弁家であることは一目瞭然であり、それが他人に気取られないわけがなく、そんなことにも気づいていなかったということ。もうひとつは、そんなことに驚くということは、熊太郎以外の人間は思弁していない、もしくはしたこともないと熊太郎が思っていること。もう本当に信じられない。しかも! しかもだ、しかも。彼はこの後、よりにもよって弥五郎を! 今まで熊太郎のことを軽蔑しつつも、それでも「ああ、俺は本当に熊五郎のことが好きなんだなあ」と笑い、自分がそう思ったことを熊太郎にばれないように押し隠し(しかもそれは成功していた! 最後まで!)、彼の後をついてきてくれて弥五郎を! 他の! 誰でもない! 弥五郎を! 熊太郎は! ああ、もう!
 この感情を、いかに表現したらいいだろうか。一言で表現するなら、秋山激怒。二言で表現するなら、秋山大激怒、である。
 何故って城戸熊太郎。こいつは考えていないからだ。口では思弁家だの何だの言っているが、こいつは実のところ全く、何も、これっぽっちも考えていないうつけである。これでは「考えろ考えろ」と繰り返しているだけの木偶の坊に過ぎない。確かに本書は、自意識であるとか、ディスコミュニケーションであるとか、そういうのを描いた傑作だとは思うが、肝心の熊太郎が、実は何も考えていない、それこそ、どうやらただの淫乱であったらしい縫と同等であるかもしれないのだ。本書を最後まで読んで「考えていることを、うまく表現できないのは、悲しいことだと思います、まる」だなんて言い出す人がいれば、秋山の本読みとしての誇りを賭けてその人を殴り飛ばさなくてはならない。がしかし、読書とは不思議なもので、そうではない可能性もありうるのだ。ただ単に秋山が誤読しているだけという可能性も捨てきれない。
 さあ、そこで問題の675ページ。ここをどう解釈するかで、秋山の中で熊太郎を、と言うかこの作品を許すか許さないか、庇うか庇わないのかの決着がつく。

 そう思った熊太郎はもう一度引き金に足指をかけ、本当の本当の本当のところの自分の思いを自分の心の奥底に探った。
 曠野であった。
 なんらの言葉もなかった。
 なんらの思いもなかった。
 なにひとつ出てこなかった。
 ただ涙があふれるばかりだった。
 熊太郎の口から息のような声が洩れた。
「あかんかった」
 銃声が谺した。
 白い煙が青い空に立ちのぼってすぐに掻き消えた。

 なんだこれは。
 唖然、とした。もしかしてこの記述はつまり、熊太郎が、実は自分は何も考えてなどいなかったのだと自覚した、ということを示しているのだろうか。しかし、いや、だとしたら……秋山はどうすればいいのだ。死に際して、実は自分の中に言葉などなく、思いもなく、なにもなかったことに気づき、ただ「あかんかった」とだけ言って、自決。これは、ちょっと、いくらなんでも、ずるいのではないだろうかと思う。何故なら、この数行は秋山のように読むこともできれば、ただ単に熊太郎は自らの中にあった虚無に気がついたと読むこともできるのだ。けれど、実際に殺戮の限りを尽くしているときに、彼が覚えていたのが虚無である以上、「本当の本当の本当のところの自分の思い」なるものが、表層を覆っている虚無と同じとは思えない。であるならば、やはりここの数行は、彼が実は思弁家でなかったことを意味しているはず……なのだけれど、誤読かもしれない。くわっ。納得ゆかない。勝負をはぐらかされた気分。これでは良くて引き分け、悪くて負けではないか。何と言うことだ。くやしいなあ。ああ、もう!
 と、言うわけで堪能させていただいた。
 圧巻のボリュームであることに加え、リズムを考えて書かれているので、見た目ほど量を感じさせないのだ。上のネタバレ反転している理由から、秋山は「これは傑作! 素晴らしい」と言い切れないのだが、悪くはなかったし、人にも勧めていきたいと思うし、他の町田康の著作も読みたいと思う。
 ところで、読了後に帯を見て驚いた。凄まじい勢いでネタバレしているのだ。具体的には終盤の展開全部。確かに本書の主題は、熊太郎がどう思って、何故そのように行動したか、なのだが、だからと言って熊太郎が行動した結果を、すべて明かさなくてもいいだろうに……。