いきなり違う話から入って恐縮ですが、京極夏彦『姑獲鳥の夏』に始まるシリーズは、ミステリなのか否か?
恐らく多くのひとがミステリだと思っているでしょうが、京極夏彦本人は「小説だ」と言っているのですよね。実際、巻末の講談社ノベルス作品一覧を見てみると、本人たっての希望により「長編本格推理」だとか「傑作ミステリ!」といったフレーズが躍っているのではなく、ただ単に「小説」としか書かれていません。著者曰く、このシリーズはミステリではないのです……にも関わらず『姑獲鳥の夏』に始まるシリーズは書店のミステリコーナーに並べられていますし、『このミステリーがすごい!』にランクインしたりします。何故か? それは便利だからです。毎回「電撃文庫とか富士見ファンタジア文庫とか角川スニーカー文庫とか、そういうレーベルから出ている本」と言うより「ライトノベル」と一言で済ませてしまった方が楽だからです。詳しくはライトノベルを定義しなければならない理由をご覧ください。
さて、ライトノベル定義論の発端について考えてみたいと思います。ここ数年、たとえば文庫でないのに表紙にアニメ調のイラストがある西尾維新『クビキリサイクル』であるとか、電撃文庫から出ているのにイラストがない御影瑛路『僕らはどこにも開かない』であるとか、果たしてライトノベルと言えるのかどうか一概には判断しきれない作品が出てきました。おそらくライトノベル定義論が幕を開けたのは、こういった境界線上に位置する作品をどうするか、ファンの間で揉めたからではないかと思われます。
これに際し、下記引用部分を読んで思い出したことがあります。
そんなことを考えながら本を作っている人たちの作品を、たとえば「電撃文庫だから」という理由で、十把一絡げにライトノベルと呼んでいいかというと、それはなんか違うだろうと思うのです。
id:m_tamasakaさんは電撃文庫のみを取り上げていますけれど、秋山の記憶が正しければ、富士見ファンタジア文庫も角川スニーカー文庫もライトノベルという言葉は使ってなく、むしろMF文庫Jとガガガ文庫以外では使われていないのではないか、というぐらいです。
ライトノベルという名称はふしぎなことに、書店に行くとライトノベルコーナーがあったり、『このライトノベルがすごい!』があったりするにも関わらず、出版社側は頑として使っていない言葉なのですよね。これが他のジャンルだと新本格、リアル・フィクション、新青春エンタ、新伝綺……と枚挙に暇がないほど新ジャンルや子ジャンルが生成されていたりするので、このギャップは何なのだろうと首を捻ります。
また、かつては「電撃文庫とか富士見ファンタジア文庫とか角川スニーカー文庫とか、そういうレーベルから出ている本」をしてライトノベルと言っていたのに、いまは3社それぞれがそれぞれの方法で、それまでのその文庫らしからぬ本を出しているように思います。それはたとえばイラストの撤廃であったり、判型の変更であったり、媒体の移行であったり。
こういった現象を見ると、どうも、かつてSFやファンタジー*1を抜け出してライトノベルという新天地にやってきたレーベルが、いままたライトノベルを抜け出して、どこか他の新天地へと向かいつつあるように見えます。
けれど、その一方で、ライトノベルという既に完成された楽園へ飛び込んでくるレーベルもいます。例えば、MF文庫Jライトノベル新人賞や小学館ライトノベル大賞というように、ライトノベルという名前を冠した新人賞を擁するレーベルがそうだと言えるかもしれません。
案外、電撃が向かおうとしている新天地の名前を発表してくれたら、いまのライトノベル定義論は、あっさり終結するかもしれませんね。ライトノベルレーベルから出ている文庫はライトノベルで、そうでないライトノベルっぽい作品はボーダーノベル*2、みたいな感じで*3。