雲上四季

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

読書で達するには(非官能小説編)

 読書をする一番の楽しみは? ときかれたら、少し考えるかもしれないが、私の場合、ある種のエクスタシーがあるから、と答えるのではないか。

 こうした選択と想像力は、本読みとしてのトレーニングで、知らず知らず養われ、スピードとうまさが上がっていくものだと思う。もちろん巷の速読の技術とは異なる。練達の本読みならば、本のページを開いた途端、自分の手順で自然と頭と手が動いていく。一種のコンピュータの動作のようなものが、本読みの頭中で働くのである。

 どうして本を読むのかという点から思考を始めると、ただの自分語りに尽きてしまうように思いますけれど、仮に快感を得るのが目的だとし、ではいかにしてその快感を得るかという点から思考を始めると、なかなかに面白いです。
 秋山が思うに読書というのは、読者がいて、本があって、読者が本を読むことで成立するものではありません。その先にもう一歩あって、読者が本に書かれてあることを理解*1してはじめて読書が成立するように思います。と言いますのも、たとえばドイツ語で書かれた本があったとして、ドイツ語を読めない秋山がその本に目を通したところで、果たしてその本を読んだと言えないと考えているからです。
 これは理解できる言語で書かれたものであっても同じです。いくら平易な日本語で書かれていたとしても、右から左に読み流しただけでは100%理解したとは言いがたいでしょう。とは言え、どんな本であっても100%理解するなんてこと、不可能だと思います。100%理解したつもりになることはいくらだって可能だと思いますが……あ、この話は以前にもしたことがありますね。参考までに、

 怪談小説……に限らず、あらゆる小説というのは、作者と読者の間で交わされるコミュニケーションだと考えています。で、コミュニケーションは基本的に成功しないものとも考えています。伝えたいことを、完全にアウトプットすることなど不可能ですし、また情報を完全にインプットすることも不可能でしょう。顔を突き合わせて、腹を割って話そうとしても通じないことがあるくらいです。ましてや小説という媒体を通してコミュニケーションが成立しうるだなんて……そう思っているほうがクレイジィです。あ、クレイジィは言いすぎですね。失礼失礼。

 話を元に戻して。ここでは100%理解するのではなく、いかにして快感を得るかという方向から考えてみたいと思います。
 と言っても、結論は冒頭に引用させていただいたもののなかにあります。
 はい、反復練習、ということですね。
「本読みとしてのトレーニング」という表現は、なかなか面白いものだと思います。何冊もの本を読み、経験値を獲得し、本読みとしてレベルアップすることで、より多くの快感を得ようとする。やや下品になりかねない表現ではありますが、自己開発に近いですね。
 えー、ちなみに読書で達するには(官能小説編)を書く予定はありません。あしからず。

*1:正確には理解したつもりになる。詳しくは後述します。