雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

ジャンルが死滅するとき

 志怪小説というジャンルをご存知でしょうか?
 と質問を投げておいて、いきなり違う話をしますが。ジャンルとは作家・出版社・読者というみっつの要素によって構成されているものだと思います。この三者がある特定のジャンルに属する作品を書いたり出したり読まなくなったときに、そのジャンルはなくなってしまうのではないか。今日はそういうお話。
 秋山が慣れ親しんでいるという理由で、ミステリを例に取り上げますが。去年か一昨年ぐらいから「帯やあらすじにミステリと表記すると売り上げが落ちる」という話が出回りました。誰が言い出したことなのか、信憑性はあるのかとグーグル先生に聞いてみると大森望の日記を教えてくれました。以下、該当部分引用。

 そう言えば、こないだ某社の編集者から聞いた話によれば、最近、四六判文芸書の世界では、「帯にミステリーと書くと売れない」と囁かれはじめているらしい。てっきり冗談かと思ったら、「上司からミステリーとは書くな」と言われた編集者はほかにも数人。「純愛」「青春」「泣ける」あたりが売れセンのキャッチで、「ミステリー」と書くと若い読者にそっぽを向かれる――という認識が一般化しつつある模様。20代にはむしろ(綿矢・金原以降)純文学のほうが売れる(青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』が増刷したというぐらいだから、「若手作家の書く純文学」がちょっとしたブームなのはまちがいないでしょう)。本格ミステリは一定の固定読者を持っているし、初版10万部クラスのベストセラーを連発するミステリ作家もいるけど、ごくふつうの四六判ミステリはかなり苦戦している。文庫の海外ミステリも一時にくらべると壊滅的な状態だし……。いよいよ「ミステリ冬の時代」ですか? 因果はめぐる風車。
http://www.ltokyo.com/ohmori/050630.html

 どうして「帯にミステリーと書くと売れない」が「ミステリ冬の時代」に繋がるのか? ミステリというジャンルが死滅するときから考えはじめてみましょうか。……まず、ミステリ作家がいなくなります。寿命で亡くなったり、他のジャンルに転向するなどして、ミステリ作家がミステリを書かなくなります。次にミステリを出版する出版社がいなくなります。新刊はもちろん出ませんし、海外ミステリの翻訳もされなければ、むかしの名作が復刊されることもなくなります。こうなると、新刊書店ではもうミステリは手に入りません。ミステリを読むには、古書店を訪ね歩き、自分の足で探すしかありません。しかし、そんなことをする読者は、果たしているのでしょうか? まだミステリが存在していた時代を知っているひとは、ミステリを懐かしんで古書店を探すかもしれません。しかし、そうでないひとは、そもそもミステリというジャンルがあることを知らないので、探しようがありません。
 この順番は実際には異なるかもしれませんね。最初にミステリ読みがいなくなり、売り上げの問題から各出版社がミステリから撤退して、ミステリ作家たちは仕方なくミステリ以外の小説を書くようになる。と言うのが、より現実味がありそうですね。
 まあ、そんな感じでミステリが滅ぶとしたら、確かに「帯にミステリーと書くと売れない」という現象は、死滅に至る最初の一歩かもしれず「冬の時代」と形容してもおかしくないでしょうね。
 では、冒頭に掲げた質問。
「志怪小説というジャンルをご存知でしょうか?」
 いや、実を言うと秋山自身、志怪小説は詳しくないのですよね。小学生の頃、安能務封神演義』を読み、その解説で知った言葉だと思うのですが「どうやら怪奇や伝奇のほかに、志怪というのもあるらしい」ぐらいの知識しかありません。
 そう言うわけで、再びグーグル先生に聞いてみたのですが、これが中々、ヒットしません。志怪でググって20500件、志怪小説だと749件しか出てきません。その中をいろいろ見て回り、志怪小説について述べてあるページを探してみました。

六朝時代の小説は、内容的に神異的になり、志怪小説と呼ばれた。唐代の伝奇小説に至ると「奇」が勝ちをおさめた。魯迅が『中国小説史略』の中で指摘しているように、詩と同様に唐代で一変し、なお怪異を求める風は存したが、その文学性は格段に洗練された。つまり、唐代の「伝奇」は、従来のように怪異を叙述しながら、人事の機微までをも描き得ており、それは、前代の「志怪」の描ききれていないところであったのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%AA%AC

 行き着いたところは、中国六朝時代に発達した「志怪」(怪をしるす)だった。これは、幽霊や化け物など怪異(もののけ)が登場する、いわば「実録」である。つまり、そのような怪異が事実存在したことを、記録したものだ。日本の『今昔物語』などは、多分にこの影響を受けている。
 竹田教授は、この「志怪」文学が、小説の源流ではないかと考えている。これが基になって唐の時代に本格的な小説が登場してくる。
http://www.meikai.ac.jp/newsletter/200109/13.shtml

 と言うわけで、どうやら志怪小説というのは、怪異を描くことに特化した、怪奇幻想のもっとも古いかたちのようです。
 で、問題は、この志怪小説というジャンルがどれだけ知られているか。どれだけ人口に膾炙しているか、ということ。いや、アンケートとか取ってないので分かりませんけど、グーグルでヒットする件数から見ても、知名度はかなり低いと見て間違いないと思います。それこそ「志怪小説というジャンルは既に死滅している」と言ってもいいのではないかと思ってしまうぐらいに。だって、今現在、志怪小説を書いている作家は(多分)いませんし、志怪小説の新刊を出版している出版社は(多分)いませんし、学者や研究者以外で志怪小説を好んで読んでいる読者も(多分)いないと思います。もっとも、志怪小説はジャンルとして死滅したと言うより、伝奇に取って代わられたと言うか、伝奇に進化したという向きが強いので、例として取り上げるにはあまり相応しくなかったかもしれませんね。
 まあ、それでジャンルが死滅するときですが。「帯にミステリーと書くと売れない」がその起因のひとつであれば、「これはミステリではない」もジャンルを滅ぼさせる要因のひとつになりえると思うのですよね。そんなことを考えながら「これはSFではない」でググってみました。*1

  • 主観を根拠に「これは百合ではない」と決め付けるのではなく、「これは百合ではないと思う」「この作品には私が考える百合としての要素がない」ぐらいの表現にする
  • それが嫌なら、百合チンポと百合マンコにご登場願う
  • 両方嫌なら黙っている

というのが、ジャンル全体の平和のためにもいいんじゃないかな、と自戒もこめて(あたしもすぐ『これは○○ではない!』みたいに突っ走っちゃうところがあるもんなー)思っているところです。
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20070508#1178600232

 いや、百合とか書かれてる部分を引用してしまいましたけれど、上記エントリでは森奈津子『電脳娼婦』のあとがきが引用されていまして、その文脈の先として百合があるのです。自分が取り上げたかったのは「ジャンル全体の平和のためにもいい」の部分で、つまり「これは××ではない」という表現は、そのジャンルの平和を破壊しかねない、むしろ滅びに繋がるのではないかということ。
 逆に考えてみましょうか。
 ミステリ作家が増え、ミステリを出す出版社が増え、ミステリ読みが増えたとします。そんなせかいでは、確かに「これはミステリではない」と思わず言いたくなってしまうような作品もあるでしょうが、その一方で、ミステリが人口に膾炙していなければ世に現れなかったであろう途轍もない傑作も生まれえると思うのです。これは希望ですけれど、ある側面から見れば論理的でもあると思うのです。だって、色々な人が「ミステリSUGEEEE」とか言いだして、書店でミステリがバカ売れすれば、出版社はこぞってミステリを、それも他社より面白いミステリを出したがりますよね? 当然、作家だって競争相手が増えるわけですから、それまで以上に面白いミステリを書かんと励むでしょうし。そうなればさらにミステリはSUGEEEEことになりますよ。いやー、素敵な未来ですね。


 と言うわけで、今まで何度か「これはミステリではない」とうっかり使ってしまったことがある自分を戒めつつ、西荻てのひら怪談イベントレポで始めたジャンル考察を、もう少し押し進めてみました。
 ところで今回、どうしてこんなことを書いたかというと、某所で「これはライトノベルではない」というような記述を見たからです。ライトノベルではないって…………。

*1:今回、グーグル先生大活躍だなあ。