雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜

本と涙と謎解きと、愛しさと切なさとボードゲームと

名作『MASTERキートン』は時代遅れになったのか?

 浦沢直樹の『MASTERキートン』を全巻一気読みしました。
 非常に面白かったのですが、その一方で引っかかりを覚えたと言うか、手放しで絶賛できない気もして、今日は、ちょっとモヤモヤを抱えたまま感想を書いてみます。

私と平賀=キートン・太一

 漫画家、浦沢直樹との出会いは『MONSTER』です。
 非常に気に入って、氏の他の作品にも触れたいと考え『パイナップルARMY』、『YAWARA!』『MASTERキートン』『Happy!』の、それぞれ1巻ずつを買った日のことを覚えています。
 当時、中学生だった秋山は、とにかく物語という物語に餓えていましたが、そのすべてに触れられるほどお金を自由には出来ませんでした。
『MASTERキートン』の登場人物はどれも魅力的で、あのときに買った本の中では、もっとも強く印象に残っています。
 なんと言っても主人公のキートンですよね。
 スーツを着て砂漠を訪ね、あのポーズを取って「あいつはカーリマンだ」と称賛されるシーンは名場面だと思います
 ユーリー先生の「さあ、諸君、授業を始めよう。あと15分はある!」も名台詞ですし、百合子の名前が彼に由来するというエピソードも好きです

1話完結の短編形式を守る姿勢が好ましい

 読み始めて気づいたのですが、学生の頃は1~3巻程度しか読んでいなかったのか、ほとんどが初見のエピソードでした。どの話も感動的で、涙もろい性格なので「なにこれ、めっちゃいい話やん。泣くわー」と涙を我慢できない話も多かったです。
 驚いたのは1話完結の短編形式の多さです。
 この手の作品は、後半になればなるほど、1話が前後編になったり、3話構成になったり間延びし、登場人物もシリーズキャラクターが出張りつづけるものですが、この作品は、ほとんどそういう傾向が見られませんでした。
 もちろん、キートンの父親である平賀太平や娘の百合子、幼馴染のチャーリー・チャップマンや、相棒のダニエル・オコンネルは、事あるごとに顔を出しますが、この4人くらいなものです、シリーズキャラクターと言えるのは。後は、2回も顔を出せば多い方です。
 この1話完結の短編形式を守り、このスタイルを継続するという姿勢は、とてもストイックで、とても素晴らしいと好ましく感じました

キートンの良いところ

 シリーズキャラクターがいないということは、基本的には毎話、ゲストキャラクターとキートンの関わりがシリーズの主題になってくるわけですが、とにかく平賀=キートン・太一というキャラクター造詣が優れているんですよね。
 考古学を志す学者であるためか非常に知識が広範囲に及び、元SASでサバイバル術に長けていてどんな窮地からも脱出できる優秀さを持ち、そして保険の調査員の仕事のためヨーロッパを中心に全世界を渡り歩き、どうやら英語と日本語の他、複数の言語を操る様子です。
 あまりにハイスペックです。
 ちょっと人間味を感じられないくらいハイスペックであるにも関わらず、その見た目はぼんやりとだらしなく、奥さんには逃げられており未練たっぷり。駄目なところは、とことん駄目です
 このギャップが、とても微笑ましいと言いますか、ハイスペックなところが良い具合に相殺され、人間味を感じます
 余談ですが、武器を携行せず、その場にあるものを駆使して切り抜けるというポリシーが、個人的にはとても好みです。誰も殺さないという覚悟を感じます。

キートンという存在は男の浪漫の塊なのでは?

 人間味を感じられないくらいハイスペックなのに、駄目なところはとことん駄目で人間味を感じる。という矛盾した印象を覚えたとき、世の中には、この造詣に魅力を感じないひともいるのでは? と、ふと思いました。
 と、言いますか、この造詣は、いわゆるハードボイルド小説に登場する、私立探偵のそれで、「強くなければ生きられない。優しくなければ生きる資格がない」というレイモンド・チャンドラーが描く探偵フィリップ・マーロウに通じるところもあるように感じます。
 キートンという父親の影響を受けてか、百合子も他の女子とは変わった考え方を持っています。終盤においては「女性の自立」というメッセージも発します。しかし『MASTERキートン』が連載されたのは1988年から1994年に掛けて。さすがに26年も立てば、百合子の思想も古くさく感じます
 昭和生まれの秋山にとっては、とてつもなく格好良く、憧れの念すら抱くキートンですが、平成生まれの若い読者からすれば鼻につく説教臭いオヤジとしか感じないかもしれません
 未読なので、やや取り上げることに抵抗がありますが、世代によって島耕作の評価が分かれる……みたいなものでしょうか。
 この、ギャップと言うか、可能性を強く意識したのは、物語の最終盤、キートンが日本の大学と決別する場面です。自らの夢と大学教授という立場が、相反する存在として描かれたところに、言いようのない違和感を覚え、その対比構造が物語になりえた時代……を、見出しました

終わりに

 違和感を覚えた理由のひとつに、キートンの元奥さん及び、母親が最後まで登場しなかったことが挙げられるかもしれません。出そうと思えば、いかようにでも出せたはずの女性を、徹底して出さなかったところに、これもひとつの姿勢を感じます。
 もし、彼女らが登場していたら、この物語がどう変容していたのかを想像しながら、今日のところは以上です。