雲上ブログ〜謎ときどきボドゲ〜

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キセンさんとこから続く、


 長くなりすぎたので、他人のコメント欄を荒らすより、自分のとこに書き散らした方が得策だろうと思いこちらに。
 話をまとめてみた。清涼院に代表される“人間もキャラクタも描けていない作家”は、人間性を無視し、ただその設定を説明することで物語ろうとしているため、結果として人間性(人間的+人間性)もキャラクタ性(非人間的+人間性)もない、張りぼてのような人物が動き回る小説を書く作家となってしまっている。しかし、人間もキャラクタも描かないことで、逆にいい作品となっている場合も存在する(例:十角館の殺人)。であるから問題は、作家が人間性を何処に求めるか。同じ設定でも(殺害動機として敵討ちなど)それをただ作者から読者へと説明してしまうのと、作者から登場人物を通して読者へと描写するのとで差が生じる。しかし、この条件では、ファンタジィやSFまで視野を広げた場合、「綾辻→麻耶→清涼院」以外にも多くの作家が候補として挙がってしまう(魔法や機械の名前を列記するだけの小説が世の中にはある)。そこにおいて「作者本人はキャラクタが描けているつもりでいる」というところにポイントがあると思う。綾辻に関しては勉強不足だが、麻耶は少々、そして清涼院は確実に自分のキャラクタに自信があり、“キャラが立っている”と思っていると幾度か発言している。しかし、それがどれぐらい“立っている”かと言えば、マッチ棒を組み合わせただけのような脆弱なもので、設定やキーワードがなければキャラクタとしてのアイデンティティを保てないぐらいの脆いものだ。これは少し比喩的で曖昧なので言葉を補っておこう、例えば、清涼院の龍宮城之介を例にすれば、彼からとんち好き&黒衣という設定を取り除いたら、はたして何が残るのかと言う問題だ。
 ここまで書いたのなら、もう少し書き散らしておこう。秋山はこの系譜に列なる4人目として、霧舎巧を挙げておきたい。彼は「開かずの扉シリーズ」や「霧舎学園シリーズ」でキャラクタを強く前面に押し出す姿勢を取っているが、それらもやはり設定を語るだけになっており、キャラクタの魅力や存在感はまるで伝わってこない。特に主人公。霧舎はこの主人公を作ってグラビアやトレカを計画しているが、「霧舎学園シリーズ」において主人公の価値は途方もなく低い。探偵役をリードして推理をまとめるだけと言っても過言ではない。はっきり言って、不要なキャラクタではないかと思うぐらいだ。また彼の著作では、殆どの人物から現実感が欠如している。何処にいるともしれない殺人犯を気にせず捜査に熱を入れたり、犯人が未成年で過去、被害者に強姦されたという事実が明かされた後は、「殺人を許しましょう」という展開にまでなる。これで人間性が書けている、キャラクタが立っていると言うほうがおこがましい。
――ここまで書いて、少し非生産的だなと思ったので、独り善がりにならないためにはどうするべきかについても考えてみた。この問題に関しては実はそう興味がないので、キセンさんが示唆している“過去に理由を見せるのではなく、現在の中に過去を見せる”という手法と“キャラクタ性=萌え要素”についてから思考を開始しました。まず、前者に関しては、それは一つのテクニックでありながら、作者のスタンスによって取れるか取れないかが決まってしまう、極めて限定性の高い方法である。例えば、犯人が自殺する前に、集まった関係者一同に向かって、動機を告白するシーンがあれば設定を説明できるが、そうでなければ犯人の動機は永久に分からない。これを良しとするかしないかが、スタンスの問題だ。つまり、自分が作った全ての設定を作品に出し切ってしまいたいと思う作家ほど、告白のシーンを入れたがるのではないだろうか。一つの推理が新たな証拠によって打ち消され、次なる推理も新たな証言によって打ち消される。逆に、自分の考えたアイデアを作品の中に全てを盛り込まなくてもいいやと思う作家は、それによって面白い現象が起こる。例えば舞城王太郎。彼の著作では事件シーンを素っ飛ばしていきなり推理シーンに入ることがある(『土か煙か食い物か』『世界は密室でできている。』)。また西尾維新、彼の著作では膨大な伏線がばらまかれるが、その殆どは回収されないだろう。我ながら着眼点に恣意的なものを感じるし、また面白い現象が具体的にどういったものかは推測できないが、少なくとも作中で設定を説明してしまう愚は避けれる(ところで、設定を説明するのではなく描写する具体的な方法は最近、書評の仕事で書いて入稿済みなのですが、まだネットに上げられていないようなので、アップされ次第リンクを貼っておきます――確認してみたら来週の19日にアップするようです。長え……)。次にキャラクタ性と萌え要素に関して。萌えという言葉は未定義で、秋山は未定義の言葉を使うのは嫌いなのだが、萌え要素という言葉ならある程度誰でも推測が効くし、東浩紀が『動物化するポストモダン』で定義していたので使うことに抵抗はない。確か意味は、メイドやネコミミというようなキャラクタの一部、キーワード的なものを指す。さて、キャラクタ性と萌え要素が一致するとはどういう意味なのか。またそれによって何かメリットがあるのか。今は建設的な話をしようとしているので、なるべくメリットについて語る。まず、キャラクタ性に関してだが、結論から言って、これは登場人物がどれだけ虚構の存在、非人間的な存在に傾倒しているか、ではないだろうか。人外であれば人外であるほど、人間としての面よりもキャラクタとしての面が際立ち、そうしているファクタがメイド服やネコミミであれば、人はそこに萌えられるという訳だ。この場合は、虚構性や人間らしからぬ面が高ければいいわけで、全身黒ずくめの龍宮城之介のファッションや、全身が真っ赤な哀川潤のファッションも萌え要素なりえる。しかし前述の通り、設定だけの……つまりファッションだけの虚構性は、萌え要素とはなりえないどころが設定口調により悪評を受ける可能性さえある。萌える、という行為がどういった感情かは未定義だが、近い言葉で言えば、感情移入・愛玩・頭の中で再構築できる・そのキャラを使って妄想できる、といった感じだろうか。つまり、外装としてのファッション(目に見える萌え要素)の他に、内装(目に見えない萌えポイント)が必要だということだ。例えば龍宮城之介ならばガキっぽい、何でも言葉遊びにするであり、哀川潤ならば勝気だったり傲慢だったり倣岸だったりするポイントが、内装に相当する。余談だが、龍宮城之介は大人っぽいファッションなのに子供っぽい性格という逆説萌え、哀川潤は赤っぽいファッションに情熱的な性格という順接萌えと言えるかもしれない。


 2744文字。
 原稿用紙7枚使ってるわりに、中身のない話で申し訳ない。自分で見ても突込みどころ多いし。
 とりあえず結論めいた、言わば「突っ込み上等!」な箇所だけをピックアップしてみると。
・非人間的だが人間性に溢れている登場人物を、キャラクタが立っていると言う。
綾辻・麻耶・清涼院・霧舎のキャラは立っていない。
・キャラを立たせるには、説明ではなく描写を、そして萌えの形骸化に気をつけろ。
 な感じでしょうか? って、うわあ。100文字で要約できちまうよ。自分の28分の1だぜ、おい。


――で、どうしょうか、キセンさん?