自分は、はてなダイアリーを全然使いこなせていません。各種機能も、キーワードも、リファラも。それを改めて自覚すると共に、使いこなす必要はなんらないのだと強がってみる。
さて、今月の14日に書いたダイアリーに、鋭い突っ込みを入れてくださった砂色の世界さん。十月十五日の独り言、遅ればせながら拝読させていただきました。
結論から言えば、正しいと思います。ただ萌えという言葉が未定義である以上、誰にとっても正しくはないわけで、ことさら秋山にとっては正しくありません。
まずは萌えという言葉、萌えるという感情について秋山なりに定義してみれば、その意味のひとつに現実には存在しないものを、想像で補うことで現実のものであるかのように愛することができるというのが含まれる。そしてこの定義で行けば、デーブ・スペクター萌え・京極夏彦萌え・ユヤタン萌え・とうせいたん萌え・アイドル萌え・歴史上の人物萌え、などは存在しない。勿論、これは暴論だ、しかし本当に暴論と言えるのか。実在する人物に萌えを感じる人は、その人物のことをどれだけ知っているのか。京極夏彦の著作を読破し、インタビューやコメントを全部読んだからと言って京極夏彦という人間を知っているとは言えないし、あるアイドルの写真集を全て買い、そのプロフィールを暗記しているからと言ってそのアイドルを知っているとは言えない。つまり、京極夏彦に萌えている人は、京極夏彦という人間に萌えているのではなく、京極夏彦を基盤に自分の中で想像脚色を加えた架空の京極夏彦に萌えている。これは極論である。
次に萌えという言葉を知っていて、使っている人種について考えてみよう。秋山の友人関係は狭く、その社会観は未完成であるが、おおよそ萌えという単語を日常生活において聞いたことはない。さくらタン萌え! ハァハァ、などの言葉はネット上では見るものの、日常生活では見聞きすることがない。それは何故か、勿論、知っている人・使っている人が日常生活では自粛している可能性もある、だがそれ以上に、一般の……オタクでない人間は萌えという言葉を知らないのではないか。萌えるという感情を覚えず、萌えという言葉を必要としないのではないか。言い換えれば、何かに萌えることができるのはオタクだけではないのか。そしてオタクはその優位性からか、萌えという感情に必ずしも当てはまらない感情まで萌えと言い表してしまうのではないか。これも極論である。
ドール萌えに関して。萌えという言葉が明らかにフェティズムの世界を完全に覆いつくし、さらにそれ以上の領域をカバーする概念であると考えるのが妥当である以上、秋山は寡聞にしてこの理論を知らなかったのだが、もし萌えという感情がフェティシズムを内包しているのならば、ドール萌えやサイコロ萌えその他は実に妥当である。また、フィギュアをオナニーの道具とすることや、一時期流行った萌え擬人化などは、その極致とも言えるのではないだろうか。
以上を考慮した上で、秋山が今月の14日に書いたダイアリーを少し補っておこう。
まず、キャラクタ性に関してだが、結論から言って、これは登場人物がどれだけ虚構の存在、非人間的な存在に傾倒しているか、ではないだろうか。人外であれば人外であるほど、人間としての面よりもキャラクタとしての面が際立ち、そうしているファクタがメイド服やネコミミであれば、人はそこに萌えられるという訳だ。この場合は、虚構性や人間らしからぬ面が高ければいいわけで、全身黒ずくめの龍宮城之介のファッションや、全身が真っ赤な哀川潤のファッションも萌え要素なりえる。
萌えという言葉と違い、キャラクタという言葉は日常生活でも多々耳にする言葉だ。「彼はキャラが立っている/彼と彼女はキャラが被っている」などはテレビを見ていてもよく聞く言葉だ。そして使用例から類推するに、キャラが立っているというのは、その人間性の中から抽出しやすいものがあるということではないだろうか。例えば、龍宮城之介は現実に存在していてもそう違和感はない、ただ「キャラが(黒服という手段で)立っている」と思うだけだ。そして普通の人間とは違う、非日常的あるいは虚構的なキャラクタに、人は萌えることがある。繰り返すようだが、龍宮城之介が実在する場合、人は龍宮城之介にではなく龍宮城之介の立っているキャラクタに萌えている。京極夏彦や金子一馬、また秋山の私的な友人である中島氏も、そのキャラクタは萌え対象となりうる。
しかし前述のとおり、設定だけの……つまりファッションだけの虚構性は、萌え要素とはなりえないどころか設定口調により悪評を受ける可能性さえある。萌える、という行為がどういった感情かは未定義だが、近い言葉で言えば、感情移入・愛玩・頭の中で再構築できる・そのキャラを使って妄想できる、といった感じだろうか。つまり、外装としてのファッション(目に見える萌え要素)の他に、内装(目に見えない萌えポイント)が必要だということだ。例えば龍宮城之介ならばガキっぽい、何でも言葉遊びにするであり、哀川潤ならば勝気・傲慢・倣岸であったりするポイントが、内装に相当する。
(中略)
・キャラを立たせるには、説明ではなく描写を、そして萌えの形骸化に気をつけろ。
この部分に関しては、言葉が足らず砂雪氏の誤解を招いてしまったようだが、著作物に限った話をしており、ドールなどの目に見える概念はまったく考慮していない。言葉通りの意味、つまり装飾や衣装としてのファッションならば、設定こそが命であるため萌え対象にすることは充分に可能である。
形骸化に関しても、同じく小説を想定して考えている。デ・ジ・キャラットのように有機的に萌えを組み合わせることができるのなら構わないが、萌えを集めることに専念し、描写することを忘れ、説明だけになってしまったら形骸化することがあるという意。