雲上ブログ〜謎ときどきボドゲ〜

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 上手い喩えを思いついた。
 振り子のように揺れているんだよね。こうしようか、ああしようか。それで迷っているうちにどんどんずれていってしまうの、フーコーの振り子。まあ、本物の振り子だったら1日待てば元の揺れに戻るわけだけれど、自分は振り子ほどシンプルになれないから、そう、上手くいかない。
 固有名詞を記憶しないというのは、短所ではない――そう信じている。誰かが「頭のいい人は名詞よりも形容詞を多く知っている」と言っていたし……ああ、形容詞もそれほど知らないや。ええと、「超」と「めっちゃ」と「すごい」と……他にはないな、うん。
 とにかく忘れっぽいのだ。考えたことを端から忘れていってしまう。


 剣道をやっていて1番怒られたことは、動作を中断してしまうこと。ちょっと動いただけで、相手の竹刀にガードされて、それ以上の動作は無意味だと思って止めてしまう。これが駄目らしい。とにかく稽古なのだから、失敗すると判っていてもぶつかりなさい、と。そんな効率の悪いことはできないと抗議したのだけれど、とにかくやれということで。
 実はつい最近、どうしてこう言われるのか何となく判った。つまり、相手がガードすることぐらいは読めということではないだろうか。「こう動いたら相手がこう動くからこう動くことはできない」それをイメージトレーニングの段階で知れ、――と、先生はそう言いたかったんじゃないかなと思っている。
 実際、気付いてからは相手の動きを何段階かイメージしてから動くと、これがすんなり上手くいく。面白い。どう上手く行くかというと、竹刀が相手のガードをかいくぐってきれいに決まる。だから面白い。
 重要なのは最初に完成形をイメージすることではないかと思う。多分、それが全体の動作の中で最大の割り合いを占めている。こう構えて、こう動いて、こう打てば一本入る。そう確信してしまえば、後は動くだけで、それはもう一本取りに行くと言うよりかは、イメージ通りに一本もらえるかどうかの確認作業に近い。


 ええと、ボトムアップだったかトップダウンだったか。名称は忘れたが、自分は構成を考えてから作りだす派。見切り発車とかは好きではない。書いたら確実に感想をくれる人間にどれだけ届くかを考えながら、全体の上手さや下手さを調節しながら構想を練って、それから書く。
 つまらない小説を書いたときに「つまらない」と言ってもらえれば「よし」と思うし、自信のある科白を引用して「ここがよかった」と言われると、しっかりと届いたことに安心する。そういう狙い撃ちめいたものは、ある程度できるようになった。


 最近この、構想を練る時間が長くなってきているような気がする。つまり、振り子となって揺れている期間が長く、糸を引き千切って宙を滑空している期間が短い。これは悪い傾向ではないかと思う。
 飽きっぽいのと忘れっぽいのは、短所ではないが、自分の足を引っ張っていることは確実。ネタそのものを書き残しておいても確実に忘れてしまうから、どのようにしてその発想に到ったか、アプローチ方法を書き残しているのだけれど、その量があまりに多い。
 基本的にインスピレーションは認めない。閃きというのは、コンディションのいいときに、それまでに蓄積されたデータから無作為かつ無意識に、ピックアップされたものの中で偶然良いものだと思っている。だから、怒っていたとか笑ってたとかコンディションと、その閃きに関係ありそうな知識を取っておけば、いくらでも閃けるし、しかもその先へ発展させることも可能。どことなくJDCに出てくる探偵のようだ。閃き探偵?


 大前提を忘れてはならない。
・少しでも多くの人間に届くゲームを作る。
・シナリオは少なめに、システム重視で。
 この2項目だけは遵守せねばならない。したがって、先日のデルファイとかディラックとかが出てくるストーリィを活かすことができるシステムを考えるのは、ある意味において本末転倒だ。むしろ先にシステムありきで、ストーリィは後付けみたいなね。
 雰囲気としては、ストーリィとキャラクタのどちらを先に考えるかに似ている。このストーリィを最大限に活かすためにキャラクタを作るか、このキャラクタが動き回れるストーリィを作るか。優先度の問題だな。自分は……どちらだろう。昔、考えて結論を出したような気がするが、覚えていないと言うことはどうでもいいということだろう。実際、どうでもいいし。ストーリィもキャラクタも作品の一要素ではないし、それに固執したり拘泥したりするのは、まあ些事だろう。


 今までに書いたものを軽く読み返してみると、RPGと育成物と何度も繰り返している。
 この2つは相性がいいと言うか、狭義のおいては同一のものだと思う。どちらかと言えば、育成の方が、より根源的だな。そこからの派生によってRPGになったりシミュレーションになったり。
……収集という要素も魅力的だな。特にゲームの本質には関係ないものは個人的に好きだ。ゲームの中でぐらい贅沢したい、無駄なものを集めたいという欲求かもしれない。どうでもいい……あれ、これわりと重要かも、どうでもよくないな。


 飴と鞭的教育――といったものがあまり有効的ではない、どころかデメリットしかもたらさないと言うことは、自明だがゲームの世界ではどうなのだろう。敵を倒してレベルを上げる、ダンジョンに入ってアイテムを集める、ボスを倒してエンディングを見る。いわゆるドラクエ的なゲームは今でも人気があるのだろうか。自分はレベル上げは大の嫌いだが、アイテム集めは比較的好きだし……特に街や本拠地を、レベルアップしていくのは好きだな。ええと、幻想水滸伝とか。
 そうそう、それが例の『D(仮題)』(今、考えた)のメインシステムだった。なんとかのカケラを集めて棟を作ったり、その棟を増改築したり。
 そういうのが面白いと思ったんだ。
 でも自分の感性は人とずれてるらしいからなあ。自分が面白いと思うものを、他人が面白がれると思うのは危険、と。


 育成物というのは一つのジャンルになりにくいね。
 どのようにして育成するかと言えば、戦闘だったり冒険だったりミニゲームだったりで、やっぱりRPG的/シミュ的になってしまう。つまり育成物という呼び名がまずかったわけで、育成という一要素として捉えるべきだったかもしれない。収集要素・戦闘要素・冒険要素、みたいにね。
 すると考えるべくは、育成要素を内包するゲームだ。これが結果としてRPGかシミュになる。でも正直、どちらにもしたくない。ありきたりだし、作るのに時間掛かって途中で飽きそうだし。ああ、我が侭なだなあ、自分。


 幾つか案を考えた。
・発掘物
・制作物
・探索物
 まあ、何て言うか『マリーのアトリエ』とか『無人島物語』とかね。あれのもっとボタンとマウスクリックを活用したものが作れないかな。……、…………あー、んー、行けそうだな。行けるかも。わりと、来たなあ。行けそう。
 タイトルは何にしよう。『暇人の生活』かな? や、明らかにつまらなそうなタイトルだ。もちっと、こう、なんか。ストーリィに期待を持たせるより、中身を一発で指し示している『山ん中殺人事件』とか、電気屋のCMみたいに言文一致してるやつがいいよなあ。
 えっと。
 そう、
 例えば。


無人島で暮らす十の方法』
『3分クッキング〜世界創世編〜』
『猿でもわかるヒトへの道』
『食っちゃ寝!』
『世界の涯てで暇潰し』
『マイ・アイランド』
『虹色カレーの作り方』


――にゃあ、どれもいまいちだあな。
……ま、タイトルはそのうち決めるとして、とりあえずプロジェクト名はマルドゥック……は長いから、○にしておこう。
 つわけで、さしずめ、以上より、ここのところの死記は『○制作日記』とでも言うべきか。あー、比較的それっぽい感じがそこはかとなく暗示されつつも暗躍躊躇してるね。意味不明。


 D仮題は、そのうち小説にするか。