雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜

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夏目陽さんへ、第2信

 前略。
『アヴァン・ポップ』は未読です。読んだ方が、より深いレベルで議論が可能かもしれませんが、そうすることによって返信を遅らせてしまうのは勿体ないと判じました。必要があれば読みます。

夏目さんの発言まとめ

  • 思想的な意味、あるいは方法論的な意味での「文学」。
  • 「文学」は音楽や美術、その他諸々に偏在する。
  • 括弧なしの文学は、芸術における一形態。
  • 「文学」の境界侵犯現象。
  • 文字で表現することの利点とは。

http://d.hatena.ne.jp/natume_yo/20080710/1215694948

文学と「文学」と芸術

 夏目さんの返信を読んで、夏目さんの「文学」に対する強い思い入れを感じました。そして、その思い入れが、夏目さん自身にも気づかせないうちに恣意を生み出してしまっているようにも感じました。
 率直に伺いますが、どうして「思想的な意味、あるいは方法論的な意味」を含む言葉として、芸術ではなく「文学」を選択したのでしょう?

 だからこそ、「文学」をやりたいなら何も小説である必要がないのです。その思想、その方法論は音楽や絵画にも応用可能なのです。ならば、作者の想定するテーマに一番見合った方法を選択すればよい。

http://d.hatena.ne.jp/natume_yo/20080710/1215694948

 こちらに関しては、全く持ってその通りだと思います。たとえば楽譜はある意味で言語であるでしょうし、絵画はある意味で記号です。そこに文学があるかもしれないことを否定はしません。けれど、同様に小説にも音楽と美術は宿ります。リズム感に溢れる小説や詩歌には音楽があるかもしれませんし、字面に工夫を凝らした小説には美術が見いだせるかもしれません。つまり「文学」の代わりに、別に「音楽」でも「美術」であっても、それは言葉の問題であって、本質は同じであるように思うのです。であるならば、「文学」と命名するより、ただ単に芸術、もしくは「芸術」とした方が自然です。
 また、確かにマキャフリイが「アヴァン・ポップ現象」を考察するにあたり、最初に考えたのが「ポストモダン小説の手法」であり、それは、どちらかと言うと音楽や美術よりも文学に分類されるであろう概念かもしれません。けれど、夏目さんの引用を読む限り、アヴァン・ポップとは「ポップアート消費財とマスメディアに焦点を定めてきた傾向とアヴァンギャルドが境界侵犯的転覆の精神のもとに過激な形式的手法を採用してきた傾向とを融合させる方法論」であり、その本質は美術に分類されるように見えます。また、アヴァン・ポップという言葉が、アルバムのタイトルに由来することを考えると、音楽に分類されるのも、おかしくないように感じます。
 以上、2点を考慮すると「思想的な意味、あるいは方法論的な意味」を含む言葉として「文学」という言葉が選択されるのは、不自然であり、何らかの恣意が混在しているように思えます。ここで最初の問いに戻ります。夏目さんが「文学」という言葉を選んだのは「文学」がそういうものであるという結論が先にあり、その結論に辿りつく論理として『アヴァン・ポップ』を無意識のうちに選んでしまったのではないでしょうか?

文学は文字で表現できるのか?

 では、それでもなぜ私たちは文字で表現することを望むのか? 前回は小説としましたが、もう少し範囲を広げましょう。文字で表現することの利点とは一体なんなのか? ここからスタートするほうが、適切ではないかと秋山さんの返信とお互いの第一信の反応を見て思いました。

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 この問いには、やや意表を突かれましたと言っても差し支えないでしょう、喜ばしいことです。
 秋山が思うに、文字では「文学」を表現できません。いえ、これはさすがに言いすぎですね、撤回しておきます、出来なくはありませんね、ぐらいのニュアンスで。
 いきなりニコニコ動画を引用して恐縮ですが、例えば『【初音ミク】なんだかとっても!いいかんじ(長編)【オリジナル】』に出てくる文字であれば、或いは単体で「文学」を表現することも不可能ではないでしょう。
D
 いかがでしょう。この動画に出てくる文字であれば「文学」を感じとることが出来るかもしれません。とは言え、これはさすがに例外というような気もします。
 話はやや逸れますが「もう少し範囲を広げましょう」という表現に、引っかかりました。
 秋山の中で、文字は小説の構成要素のひとつであり、範囲という意味で言えば、小説より狭くなります。以下の図をご覧ください。

 いちばん大きな枠として小説があります。小説は複数の章により構成されています。そして章は複数の段落から、段落は複数の文章から、文章は複数の文字によって構成されています。実際には巻・場面・文節・語句・字形といったものもあるでしょうが、全部を図に入れると、返って見難いことになるので、ここでは絞っています。
 そして前述の通り、文字単体で「文学」を表現するのは不可能……とまでは行きませんが、かなり難度が高いと感じています。では、複数の文字からなる語句や文節では、いかがでしょうか。これも文字と同様に不可能ではないでしょうが、やはり基本的には無理であるように思います。その理由は、文節程度では「文学」を媒介させるのに充分なリソースを持っていないからです。
 試しにやってみましょうか。

 いかがでしょうか。これらの文字ひとつひとつに夏目さんは「文学」を感じることができますか?
 感じることが出来るのであれば、それはそれで構いません。感受性が豊かなのは喜ばしいことです。ですが、秋山の想像では、大多数の人間は、文字単位では「文学」を受容できません。
 では、これはいかがでしょうか。

海図のない午後。

 伝わってきませんか? 秋山には伝わります。極めて主観的ではありますが、秋山にとって文章は「文学」を媒介するに足るリソースを持っています。
 これで駄目なら段落まで一気に増やしてみましょう。

無数の白い風船が放たれ、次々と縺れ合いながら街の上空高く消えて行くのを、男と女は固く手を取り合ったまま見つめている。海図のない午後。

 ここまで来れば、充分でしょう。ある程度の読み手であればきっと伝わると思います。
 ちなみにこの作品は、超短篇500文字の心臓で行われたトーナメント「Microstory Grand-Prix 2006」の決勝戦に寄せられたもので、著者は、はやみかつとしさんです。無断で引用させて頂きましたこと、ここにお詫び申し上げます。

最後に

 秋山の中で小説は文学の媒体で、文学は芸術の媒体です。
 そして、夏目さんの言う「文学」は、秋山の考える芸術と等号の関係にあるかと思われます。「文学」でも芸術でも、まあ、言葉は何でも構わないのですが、夏目さんの次のお返事では、それが何であるかをお伺いしたいと思います。よろしくお願いします。