しんざきさんの「○○してみて分かったこと」というエントリを真似て、秋山も、ちょっと今の気持ちを整理してみたいと思い立ちました。題して、10年間、小説を書いてみて分かったこと。
……と、のっけからウソなんですけどね。なんとなく、気分で10年としましたが、ネットで小説を発表し始めたのは1998年なので、今年で16年目になります。「変なところでウソをつかずに16年って言えばいいじゃん」ですとか「キリがいい数字にしたいなら15年でいいじゃん」という異論は認めません。10年がいいのです!
短編が多かった
振り返ってみると短編ばかり書いてきました。
原稿用紙で350枚以上の長編小説は『彼女の夢』『メタ探偵の溜息』『PNOS』『Re:World』と、4作くらいしか思い浮かびません。
短編ばかり書いてきた理由は、秋山の主な活動領域が同人雑誌やアンソロジィであったり、あるいは短編の新人賞だったりのつもりですが、根源的には、集中力がないから、かもしれません。
プロットを作らない
長編は上記の通り4作程度。50枚〜150枚の短編は正確に数えてはいませんが、おそらく50作ほど。そして500文字から原稿用紙10枚程度の掌編は1000作くらいでしょうか。いや、さすがに1000作は言い過ぎか。四捨五入1000作にしておきます。
これら、ほぼすべての作品において、プロット、もしくは、それに類するものは作りませんでした。
もっと言えば、ほぼすべての作品において、結末を考えずに書いてきました。
たいていの場合、なんとなく思い浮かんだシーンを書き始めて、一行を書いたら、次の一行を考えて、その場で考えながら書いて、書くのに疲れたら休憩していました。
飽きっぽい
プロットを作らない理由、結末を考えない理由、長編を書かない理由。
それは前述の通り、集中力がないからかもしれませんが、それ以上に飽きっぽいからであるように思います。なんと言えばいいのか、どんなに魅力的な登場人物や設定を思いついても、長く付き合っていくうちに、自分のなかで新鮮味が失われていって、やがて、それを文字にする行為も退屈に思えてくるのです。
昔に書いた小説の内容を、きれいさっぱり忘れてしまうのも、ここらへんの飽きっぽさ、もしくは無関心さのあらわれかもしれませんね。
感想を欲しない
小説を書くひとは大なり小なり、それを読んだひとがどう思うかに意識を傾けるケースが多いように感じていますが、この感情が比較的、希薄です。
今現在、興味を持っていて「これは、多分、面白い!」と思っている自作については、一定の感想が気になりますし、自分が予想していなかったら意見が出たら「おお!」と思います。しかし、反対に、客観的に自作を読んで、想定していた指摘を受けたら「ですよねー」程度ですし、それが既に関心を失っている作品ですと「そうですか」みたいになってしまいます。
どうして、自分は感想を欲しがらないのか、何故、興味を持続できないのか。ここらへんは、今後、もう少し追求していきたいですね。
短編はクロールに、長編は潜水に似ている
短編を書いているときの時間感覚と、長編を書いている時間感覚は、それぞれクロールと潜水に喩えられるような気がしています。
短編の方は、もうとにかく一気呵成に、集中力や関心が切れないうちに一気に書いてしまいます。だいたい1日から、3日程度、長くても2週間くらいしか掛けません。
逆に長編の方は、一気に、いっぱい書くと、それだけ集中力が枯渇する危険性が高くなるので、完全に尽き果ててしまわぬよう、ある程度、自分の中でセーブしながら書きます。
「もう少し書けるけれど、今日は、この程度にしておこうかな」と、途中でテキストを閉じることも『PNOS』や『Re:World』を書いているときは、ありました。
中断はクイックセーブで
長編小説の執筆を中断するときは、なるべくセーブポイントでではなく、クイックセーブでするように心掛けています。
前述の通り考えながら書いているので、章の切れ間とか、場面の転換点で日を挟んでしまうと、執筆を再開するのが億劫になるのです。逆に戦闘シーンの真っ最中とか、もっと言えば、会話文の途中で止めておくと、再開するときは、ほぼ自動的に書き始められて、そのまま自然な流れで波に乗れるような気がします。
300枚で完結させる
『PNOS』は文庫本で言うと5冊くらいの分量を持つわけですが、最初の内は、もう風呂敷を畳むことなんて、いっさい考えずに、逆に、どこまで風呂敷を広げられるのか? と、自分に挑戦するように書いたように記憶しています。
逆に『Re:World』は原稿用紙300枚=文庫本1冊という上限を、びしっと決めて書いたところ、明らかに分量を見誤った感がありました。最後の駆け足感たるや大疾走ですし、前半と後半のバランスの悪さたるや、やじろべえ……だとバランスが取れてしまうので、生卵、としておきましょう。ひどいものでした。
起承転結って大事
そんなわけで、改めて起承転結って大事だなあと感じました。序破急でもいいんですけれど。
文章の量ですよね。だいたい起が1、承が3、転が2、結が1くらいでしょうか。『Re:World』を書いてみて、振り返ってみて、それくらいの配分が良いのかなあと思った次第です。
だからプロットは大事、なのかな?
そんなわけで、この配分を実現するには、実はプロットというものが、かなり重要なのではないかと思い至った次第です。
言うひとに言わせれば「当たり前だよ!」という基本かもしれませんが16年間、独学で小説を書き続け、ようやくここに辿り着きましたよ。別に遠回りも近道もしてませんけれど。
人間に対する無関心
これも、ひとに言われることが多いのですが、秋山は、ほんとうに関心のあるものとないものの差が激しいと。
関心のあるものに関しては、執着レベルの関心を示す一方、ないものに関しては雲上人が下界を見下ろす程度に距離を置いている。だとか。
そんなわけで、自作に登場するキャラクタは画一的で、バラエティに富んでいません。もちろんキャラ同士の関係性も同様です。
さし飲みって面白い
そんな他者に対する関心度の低い秋山ですが、さし飲みは、けっこう好きです。
二人っきりなので、会話を傍観することもできず、波に乗って適当な突っ込みと笑いを繰り返すことも出来ません。自分で会話をリードして、相手から面白い話を引き出すか、逆に引き出してもらうしか盛り上がる方法がありません。
そんな方法を模索するところからして面白いですね。
これからも、いろいろなひとと飲んでは、面白い体験を繰り返して、少しずつ自分を変えて、自分の書く小説も変えたい所存。
秋山にとって小説を書くことって?
定期的にやってくる衝動みたいなものですかね。
なんかうっぷんとか、不満みたいなものが溜まってくると、それを何らかの方法で吐き出さないとやってられないように、たまに書かないと苦しくなりますが、書き始めても苦しさは軽減されないどころか、余計に苦しくなるので、いいことがありません。
救済が好きなのは救済されたいからでは?
そうかもしれませんね。
自分でも気がついてないかもしれませんが、なんか、すごい抑圧されていて、そこから解放されたり、誰かに承認されたり、愛されたいから、そういう小説を好んで読むし、そういう小説を書きたいと思うのかもしれません。
そうして、自分の内面に目を向けるから、苦しいのかもですね。とか、ちょっとカッコいいこと言ってみる。
くすぐったいのは緊張してるから
昔、膝を曲げないと寝られなかったのですよ。
日常生活において無意識のうちに緊張し、筋肉が過敏な状況になり、それが、くすぐったがりという症状を生み出していました。身体をリラックスさせて、ストレスを覚えない物の考え方が出来るようになってから、膝を伸ばせるようになりましたが、自分の肉体というのは、なかなか分からないものですね。
無関心は無意識の防衛なのか?
うーん、どうなんでしょうね。
きれいな表現をすると、生きにくいほどに感受性が豊かだから、自身の感性を殺した。みたいな感じかもしれません。生きられるようになった代わりに、関心を犠牲にしている、みたいな。まあ、てきとうですけれど。
今後の課題は?
とりあえず350枚で、びしっと完結させることですね。
そのためには、やっぱりプロットでしょうか?
いつ、誰が、誰と、どこで、何をする。みたいなのを、最初から最後まで書いてみて、それぞれのシーンの長さを決めて、緩急の流れを決めて、場合によって再配置してから書いてみたら、今までとは違う感じになるかもしれませんね。
おっくれってるぅー
とか、言わないでくださいよ。
秋山も、改めて、いま言葉にしてみて「うっわ、はっずー」という気分です。
しかし、まあ、たまには、こういう四季も悪くないでしょう。
いつかの授業に続く
と、言うわけで、今日は、こんなことで。
次回は4年後「20年間、小説を書いてみて分かったこと」でお会いしましょう。んでは。
追記
ナチュラルに計算間違いをしていました。
1998年から2012年なので、14年目でしたね。
6年後と言うことで。