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大塚英志『物語の体操』第2講 とりあえず「盗作」してみよう

 本文を解説するまでもなく、題名が全てを現している。すなわち――盗作奨励。


「物語」は枝葉末節を取り除き、主要な部分だけを抽象していくと、表面的な違いが消滅し、全く同じ物語になることがあると氏は言う。そして盗作すべき箇所は、やがて消滅してしまう表面的な箇所ではなく、物語の根幹をなす、「構造」の部分である、と。
 その一例として、氏は自身が、『どろろ』をパクって『摩陀羅』を書いたときのことを書いている。さらに、村上龍という物語の構造を抜き出しやすい作家を紹介し、これを生徒たちにパクらせている。


 それはそうとして、今さらながらに気付いたことがある。どうやら氏は第1講と第2講ではひたすら、物語の構成の作り方を教え込もうとしているようだ。これに気付いた瞬間、自分は失礼ながら大塚英志氏を見直した。今までははっきり言って見下していた。なんだかんだ言ってメディアミックスに持っていくし、原稿は落とすし、言ってることがキモいし、今回も適当なこと言ってお茶を濁すのだろう程度に思っていた。が、どうやらそうでもないらしい。
 以下に言うことはそれなりに極論めいていると先に言っておこう。
 まず、時間さえかければ、それなりの作品は作れる。250枚だとか、350枚だとか、枚数を決めて何度も書き直すことによって、それなりにいい感じの小説を書くことできる。けれど、これでデビューしてしまい、連載を持つことになると、一作に使うことができる時間が少なくなり、完成度が落ちてしまう。どれぐらい完成度が落ちてしまうかは説明が難しいので、まったく完成度を落とさずに書きまくる作家を紹介しよう。森博嗣川上稔だ。特に森博嗣は分かりやすい。彼は何処かで「『黒猫の三角』を書いた時点で登場人物たちは決まっていたし、後は10作目まで続けるだけだ」と言っていた。それはつまり、幾つかのネタさえあれば、それを有機的に組み合わせ、有効的に枚数を稼げると言うことだ。逆の例も紹介しよう、佐藤友哉だ。彼は『フリッカー式』『エナメルを塗った魂の比重』『水没ピアノ』と、似たような手法とノリを使って書き走った。しかしそこで枯渇した。講談社が書かせてくれないと言っているけれど、お前、冲方を見習え、と。本当に書けるんだったら、書いて持ち込め、と。
 話が脱線しまくって、何が言いたいのか不鮮明になってきたけれど、要は――骨子を用意し、構成さえ組み立てることができれば小説なんて無限に書ける。根幹のテーマさえあれば、人はそれを数年単位でバイオリズムする気分に乗せて、いくらでも小説を書ける。そして何年か経ったら、他のテーマを探せばいい。少なくとも、過去の小説家たちはそうやってきた。そして晩年になってから、テーマや年代ごとに分類した、短編集やら全集やらを出すのだ、村上春樹とかね!
 それを今、森博嗣川上稔は半ば自覚的にやっている。自らのテーマの移り変わりを探りつつ、S&Mシリーズ→Vシリーズ→四季シリーズ、都市シリーズ→AHEADシリーズと移っている。どうして彼らにできて、佐藤友哉にできなかった。それは若さのためなのか? 若いから、根幹のテーマに気付けず、感傷めいた上澄みに気を取られてしまったのか?
 さらにズルをして、第3講を見てみれば、大塚氏はこう記している、

(前略)しかしその一方でぼくは「物語」というものに対してそれを母国語とする人と外国語とする人の二通りの人間がいることを否定しません。ただしそれは「物語」を母国語とする人を特権化することを意味しません。例えば同じ小説家であっても中上健次村上春樹はかなり努力して「物語」という外国語を習得した人ではなかったか、と個人的には感じています。少なくとも彼らは生まれながらにして器用な「物語」作者ではなかったとぼくは思います。
(中略、中上健次が小説以外の仕事をして失敗した一例)それに対して吉本ばなななどはとてつもなく洗練された物語構造を最初から持っていて難なく物語っていてぼくなどは圧倒されます。同じように「物語」を母国語とする川上弘美はしかし物語構造を玩具にするかのように自在に歪めてそこに奇妙な文学を成立させたりもしています。
『物語の体操』著/大塚英志

 来たね、来たね。思った通りだ(あべかんas有働弁護士)。全部マルッとお見通しだ!(なかまゆきえas貧乳)
 上記の引用を、自分風に言い換えてみれば――村上春樹は物語を構成する力がなかったから努力したタイプ、そして吉本ばななが物語を構成する力があったから努力する必要がなかったタイプ。
 森博嗣は年齢的にどちらか微妙だが、初めて書いた小説が2週間で『冷たい密室と博士達』であることを思い出せば、後者かも。一方、川上稔は若いころ……ってか、ガキの頃から書きまくってるから意図せず経験を積んだ前者だろう。そしてそのラインで考えれば、佐藤友哉は現在進行系で努力中か? だったら、群像に下らないコラム載せる暇があるのなら、書いて書いて書きまくれ、と声を大にして言いたい。


 話が長くなったが、小説を書く上で、その構成が重要であることは何となく分かってもらえたと思う。さて、それではその構成を作る上で、何か有益な方法はあるのかと問われたら、とりあえず清涼院流水が『19ボックス』だったかでネタ的に言っていた、プロット1000本ノックを挙げる。つまり、将来的に森博嗣川上稔並の刊行ペースで長編小説を書くのに、アマチュアのうちから長編小説を書く練習をしていたら話にならない。長編を書く暇があれば、一本でも多くの将来的に使える可能性のあるプロットを書いたほうが効率的だ。現役作家が長編小説を一作上げる間に、作家志望はプロットを何本上げられるよ? しかもアレだろ。アマチュアの場合、そもそも小説を書き始めても、それを終わらせることが難しい。それじゃあ、膨大な時間を掛けて一作書き上げてデビューしても、後が続くわけがない。そうならないためには、とにかく有効的なプロットを効率よく生産……それも大量生産するしかない。そしてこの場合、“有効的”と“効率的”の2点をカバーするのが、大塚英志氏の言う「盗作しよう」ってーことなんじゃないか?
 すげえ、すげえよ大塚英志
 つか、さらに凄いのは、その大塚英志をしてパクりたいと思わせる村上龍

 とすれば後は実践あるのみです。まず『どろろ』を「盗作」して「英雄神話」の構造を体験したら次は村上龍を「盗作」してみましょう。「みるみる物語が作れる」ようになる自分にあなたはちょっと驚くはずです。
 ただし、これはいわば「口移し」でことばを覚えるのと同じ作業ですから、何度も何度も繰り返しこのレッスンを行って「物語の構造」を頭にあるいは身体にしっかりと刷り込んであげることが大切なのは言うまでもありません。
『物語の体操』著/大塚英志

 この言葉、完璧に理解した。大塚英志の言葉、寸分の狂いもなく受けとった。まるで真綿が水に染みていくように。それは『軍鶏』に出てくる柔道を学ぶダンサーのように、或いは坂本ジュリエッタと勝負した小西のように。
 悪いが、貰った。
 ん? 悪いがは不要か?
 だったら、
 貰った。
 貰った。
 貰った。
 この星の一等賞は貰ったー!!


(そして秋山真琴はすっかり安心して床についてすやすやと眠った)
(おいおい、今夜はプロット一つも作らないで寝ちゃうのかよ)