知りません。
と言うより、有川浩に限らず、他のどのような作品も誰に読まれているかなんて分かりようがありません。もちろん、少年向けレーベルの読者は少年が多いでしょうし、少女向けレーベルの読者は少女が多いでしょう。けれど、それだってレーベルのみを意識した、極めて主観的な認識であり、現実においてそうであるとは限りません。実際、少年漫画の『BLEACH』や『テニスの王子様』の読者は女性が多いかもしれませんし、少女小説の『マリア様がみてる』だって男性の方が多いかもしれません……と見せかけておいて、逆という可能性だってないとは限りません。もうまるっきり分かりません。
となると、当然のように浮上してくる疑問があります。
仮にライトノベル作品の条件が、
・同時代性を得るためにライトノベルという手法を用いている。
・実際に中高生に受け入れられて、支持されている。
だとしたら、これを観測する術ってあるのでしょうか?
観測する方法のひとつとして……かどうかは分かりませんが、id:USA3さんは以下のように述べています。
ここを見ると、USA3さんは『このライトノベルがすごい!』で上位にランクインすることで、中高生の支持を受けているかどうかを判断し、その結果によって特定の作品がライトノベルに含まれるか否かを決めているように見えます。ところが、この認識には重大な欠陥が含まれているような気がしてなりません。と言うのも、『このライトノベルがすごい!』の投票者に中高生はどれほど含まれているのでしょうか? 秋山の勝手な想像では、投票者の半数以上は20歳以上、つまり中高生に含まれない層だと思います。とは言え、USA3さんはもしかしたら『このライトノベルがすごい!』に深く関わっていて、投票者の年齢を正確に把握しているのかもしれませんし、USA3さんのなかで中高生は中学生と高校生だけでなく20歳以上も含まれているのかもしれません。
まあ、否定するのはかんたんなので、仮に『このライトノベルがすごい!』の投票者の大半が中高生だとしましょう。だとすれば、今度は「だったらどうしてあの作品が入ってこないの?」という疑問が新たに浮上します。「あの作品」というのはこの場合、メディアミックス展開されていて、ある程度、売れていそうであれば何でもいいのですが、ここでは『灼眼のシャナ』にしておきましょうか。繰り返しますけれど、秋山は『灼眼のシャナ』が実際のところ誰にどれぐらい読まれているかは分かりません。けれど、ストーリー・キャラクタ・世界観といったものを考慮すると、中高生の絶大な支持を受けているように思います。にも関わらず『灼眼のシャナ』が『このライトノベルがすごい!』の上位10位以内に入ったことが1度もありません。何故か? 秋山の主観がずれているのか、それともやっぱり『このライトノベルがすごい!』の投票者の大半は中高生ではなかったのか。どちらでしょう?
ところで、ここで秋山の個人的なライトノベルの定義を述べておきたいと思います。
一言で済みます、著者がどう思っているか、です。具体的にはライトノベルレーベルで出すことを、著者は自作をライトノベルとして書いた、という風に判断しています。したがって秋山個人の定義によってふるいにかけると有川浩『図書館戦争』はもちろん西尾維新『刀語』もライトノベルには含まれません*2。
そう思っているにも関わらず、変てこなライトノベルとして、『図書館戦争』と『刀語』を挙げたかというと、ダブルスタンダードでたいへん申し訳ないですが、取り上げて紹介するためです。簡潔に言うと「これはライトノベルではない!」として作品を紹介する機会を逸するより、「これもひとつのライトノベル」として、より多くの読者に紹介してしまう、というのが雲上四季管理人としての秋山の姿勢です。
この考え、および姿勢に関しては「どうせいま思いついたのだろう」と言われても困るので、過去に書いたエントリを挙げておきます。こちらを読んでいただければ、秋山の元々の定義やスタンスがご理解いただけるかと思います*3。
さて、以上でどうして『図書館戦争』と『刀語』を変てこなライトノベルとしたのか、その理由は説明できたかと思いますが、では『図書館戦争』という手法に見るライトノベル定義論においてはどうなんだと疑問に思われることかと思います。
こちらに関しては、USA3さんと建設的な議論をするために、USA3さんに合わせたとしか申し開きができませんね。あの時点で秋山は、USA3さんは新城カズマの定義に則って話しているのかと思ったのです。それに対して「いや、俺の定義ではこうだから」と返したら失礼ですし、なによりこのネット上におけるライトノベル定義論がちっとも前進しません。そこで、手元に『ライトノベル「超」入門』があったことも幸いし、これを読み、新城カズマの定義の元に立って議論しようと考えました。
『ライトノベル「超」入門』は思っていたより面白く、新城カズマによる定義はシンプルであり、また頷けなくもなかったです。
・同時代性を得るためにライトノベルという手法を用いている。
ね、分かりやすいですよね? まあ、ここで述べられている「手法」が実際のところどんな「手法」なのかと問われれば「そんなことは書かれていなかったから知らない」としか返せないですが、おそらくこの「手法」というのは作家によって千差万別なのでしょう。したがって、どう見てもライトノベル的な内容でなかったとしても、作家がライトノベルという手法を用いたらと主張されたら、読者としては「はあ、そうですか」としか言いようがない。
ところが『ライトノベル「超」入門』を読んでから、USA3さんのエントリを読み返してみると、どうも新城カズマの定義の定義に反しているように見えました。そこで、
どうして新城カズマ『ライトノベル「超」入門』を下地にしつつ、秋山とUSA3さんとで結論が食い違うのか。その理由は、両者の間で読者層が異なっているからではないかと思います。
と投げかけつつ、疑問点を洗い出してみました。
これに対して、USA3さんはご丁寧にお返事を返してくれて、その点については感謝の気持ちでいっぱいでした。が、どうにも引っかかる箇所があったので、コメント欄で確認させていただいたところ、
それからコメントの後半についてですが、私は新城氏の主張に同意してはいるものの、それそのものを己の論拠としているわけではありません。
とあって、ちょっとがっかりしました。だったら、それを最初に言っておいてくれよ、みたいな。ここでややテンションが下がって、実は補足のエントリも今日、id:y_arimさんからトラバが送られるまで知りませんでした。
話を戻す前に、些末なレスを、
秋山君に『図書館戦争』がライトノベル手法を用いているように見えるのは結局、ライトノベル出身作家が書いたからライトノベル的なんだという贔屓目のトートロジーでしかない*5。
有川浩が『図書館戦争』を書くときにライトノベルという手法を用いたのか否かは分かりませんが、USA3さんが「小説の内容自体はたしかに『ライトノベル的』ではあります」と言っていたので、それに合わせました。
後「この表紙なら買えます。電車でカバーを掛けずに読むことも出来なくはないでしょう。/……い、いや。やっぱり無理かも」に関してですが、考えてみれば電車のなかでカバーを掛けずに本を読むということがほとんどありませんでした。最近では『赤石沢教室の実験』と『ベータ2のバラッド』ぐらいしかカバーかけずに読んでいませんね。『ダイアルAを回せ』程度のイラストでさえカバーを掛けます。変な表現をしてしまって、すみませんでした。
ところで、『塩の街』と『図書館戦争』の間にあるハードカバー作品、『空の中』『海の底』についてはどう位置づけていらっしゃるだろうか。近作の『レインツリーの国』『クジラの彼』も。
前述のようにいずれもライトノベルとしては捉えていません。ハードカバーで刊行されなおした『塩の街』も同じくです。
話を戻します。
が、これ以上、言葉を重ねても冗長なので、ざっくりすっ飛ばして結論すると、USA3さんもy_arimさんも「俺が、この作品は、中高生によって支持を受けていると判断したらライトノベル」ってことですよね? これはおおよそ客観的もしくは絶対的なもの、もちろん正統/正当なものとも言えず、定義から程遠いところにあるように思います。したがって同意できません。けれど、だからと言って別に秋山は自分自身の定義をおふたりに押し付けません。確かにy_arimさんの言うように、こういった態度ではせかいは良くならないかもしれませんが、別に構いません。どうぞご自由に、です。
ところで、今回は偶然「レーベル(+特定の作品)」の特定の作品の部分が重なったから同意できたものの、もし重なっていなかったり、ずれていたとしたらy_arimさんはUSA3さんに対しても「俺色に染まれ」とかしていたのでしょうか? るろ剣の斎藤一みたいで格好いいですね。がんばってください。
追記
どうやらUSA3さんとy_arimさんのライトノベルの定義は、
・ライトノベルレーベルから刊行されている。
・ライトノベルという手法を用いて書かれ、中高生に受け入れられて、支持されている。
と2つあって、どちらか片方を満たしてさえいれば良かったようです。したがって『灼眼のシャナ』に関するくだりは、秋山の勘違いということで。
……さて、しかしそうなると青い鳥文庫がライトノベルレーベルかどうかはさておき、少なくとも『若おかみは小学生!』と『黒魔女さんが通る!!』あたりは中学生にかなりの人気を誇っていそうな気がします。どうなんでしょう?
追々記
まず、
『このライトノベルがすごい!』の投票者に中高生はどれほど含まれているのでしょうか?
についてですが、少なくとも『このラノ2007』では投票者の半数以上は20歳未満です。これは『このラノ2007』本誌の中できちんと明記されています。ですから、
秋山の勝手な想像では、投票者の半数以上は20歳以上、つまり中高生に含まれない層だと思います。
については、それは違う、ということを、まずは書いておきます。
驚きました。と同時に申し訳ない気持ちでいっぱいです。いちゃもんつけてごめんなさい。
ライトノベルの主な読者が中高生であるという空気は感じ取っています。その一方で、中高生が中心でないライトノベル*6があるというのも理解しています。で、戯言シリーズに関しては後者だと思っていたので、その結果には純粋に驚きです。と言いますか、『このライトノベルがすごい!』をしっかりと読み込んでいない状態で取り上げるのではなかったなと反省します。
お互いのがっかりに関してですが、これは単にお互いに議論することに対する姿勢の違いではないでしょうか。たとえば秋山は仮に自分が右翼だったとしても「じゃあ、秋山くんは左翼側に立って議論してください」と言われれば、左翼的思考を行い左翼的発言が可能です。それと同じように、秋山は『図書館戦争』がライトノベルであるとして議論することが可能です。そうして、したかったのはライトノベル定義論の前進であって、お互いがお互いの考えを勝手にバラバラとぶつけることではなかったことです。とは言え、こういった姿勢を最初に明示しなかった自分にも非があることは確かです。反省させていただきます。
とは言え、これだけ言葉を交わして、ようやくなんとなくUSA3さんのことが分かっていたような気がします。幻想かもしれませんけれど。
・ライトノベルレーベルから刊行されている。
・ライトノベル以外のレーベルから刊行されていても、ライトノベルの中心読者(現在では中高生)に強く支持されている。
前者に関して異論はありません。
後者に関して「強い支持」というのは、どのように判断するのでしょう。『このライトノベルがすごい!』における「モニター」という枠は、確かにひとつの指針にはなりえるかもしれませんが、確実なものだと言えるようには思えません。もう少し、なんと言えばいいのでしょう、無理な注文かもしれませんが、客観的なと言うか、説得力のある基準はないのでしょうか?
*1:『このライトノベルがすごい! 2007』ランキング1位獲得など
*2:講談社BOXをライトノベルレーベルではないとしているのは、値段・箱に入っていること・版型が文庫ではないこと、です。
*3:面倒であれば別に読まなくても構いません。信用してください。
*4:西尾維新著作がライトノベルではなくエンターテイメントにカテゴライズされていることが分かると思います。
*5:それに関連して言うと、「この表紙なら買えます。電車でカバーを掛けずに読むことも出来なくはないでしょう。/……い、いや。やっぱり無理かも。」と仰っているが、あの程度「一般文芸」ではちょっと派手目だが十分ありふれた装丁である。買える買えないを云々する必要すらない。そこで不必要に羞恥を覚えるのは、この贔屓目に基づいたライトノベル読者の自意識過剰にすぎないと思うのだが、いかがだろうか。