雲上四季〜謎ときどきボドゲ〜

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極めて個人的なライトノベルの定義

 秋山氏は「ある作品の著者がその作品をライトノベルだと思っているというふうに判断するのは、その作品がライトノベルレーベルから出ている場合に限る」という主張にコミットしているものといちおう解釈できる。すると、秋山氏の判断基準は「ある作品の著者がその作品をライトノベルだと思っているというふうに判断するのは、その作品がライトノベルレーベルから出ている場合であり、かつ、その場合に限る」ということになるだろう。
 ただ、このようにパラフレーズしてしまうと、この判断基準はほとんど定義と変わらないほどに強いものになってしまう。ある作品がライトノベルレーベルから出ているという事実が、その作品の著者がその作品をライトノベルだと思っているという事実を構成する、または、そのように擬制する*6というふうに果たして秋山氏は考えているのだろうか。それとも、ある作品がライトノベルレーベルから出ているという事実は、他のより強い根拠によって覆されない限りにおいて、その作品の著者がその作品をライトノベルだと思っているという事実の証拠となる*7ということなのだろうか。もし後者だとすれば、上のパラフレーズは誤りだということになるだろう。
 どちらであるのかを判定する決め手はない。だが、前者だとすれば、冒頭の引用文で秋山氏が述べていることはある意味で冗長だということになる*8ので、そのような冗長さは秋山氏が意図したことではないとすれば、前者の解釈は誤りであり、上のパラフレーズも誤りだということになるように思われる。

 ざっくりid:trivialさんのエントリを引用させていただきましたが、上記引用文は完全なものではありません。原文にはイタリックや脚注が含まれます*1。本エントリの引用文において、イタリック*2や脚注*3が含まれていないのは、ただ単にコピペしたからです。原文が見たいひとは原文に飛んでください。
 どうして原文の通りに引用しないかというと、原文の通りに引用するというポリシーを持っていないからです。かと言って、原文通りに引用しないというポリシーを持っているわけでもありません。秋山も基本的には原文通りの引用を好みます、けれどもtrivialさんのエントリの場合、ここだけを引用してもあまり意味がありません。つまり、前後の文脈が非常に重要なので、本来であれば全文を引用する必要があるのです。しかし、全文引用は場合によっては著作権違反にもなりかねないですし、それは避けたいところです。なので、ここではいわゆる「取っ掛かり」として引用しているに過ぎないと思っていただければ幸いです。したがって原文が見たいひとは原文に飛んでくださいと述べましたけれども、このエントリの主旨を理解されたい方は、原文を見ていただかないと十全には理解できないかと思われます*4。そう、お察しの通り、この書き方も意図的かつ意識的なものです。せっかくなので、trivialさんのエントリを最初にブクマしたid:Erlkonigさんに経緯敬意を表し、この繋がりを神話的繋がりとして、神話的空間が展開されていることにでもしましょうか*5
 結論から言うと、極々、個人的な、つまり秋山にとって、ライトノベルは以下のように定義しています

・著者がライトノベルとして世に出した。

 以下、検討に入ります。
 ここでは以下の2点を疑問点として取り上げたいと思います。

1)いかにして作者の気持ちを汲み取るか。
2)世に出すとはどういうことか。

 まずは1から始めましょう。ひとは他のひとが考えていることを見抜くことはできません。しかし、他者の言動から、そのひとの思考を読み取ることは可能です。たとえば、エスカレーターから降りるときに、つまづいて転びそうになってしまったとします。そのとき、前のひとが手を差し伸べてくれました。前のひとがどういった気持ちで手を差し伸べてくれたかは分かりませんが、どちらにせよ転ばずに済みました。次の日、大事な資料を忘れてしまったとします。今から元いた場所に戻っている余裕はありません、かと言って先方に向かっても資料がなければ話になりません。難儀していたところ、昨日、エスカレーターで手を差し伸べてくれたひとが資料を届けに来てくれました。助かりました。さて、さらに次の日、そのひとから映画に誘われました。さて、この3つの出来事をして、どのような気持ちを汲み取ることが可能でしょうか。このひとはもしかしたら、孫かもしれません。困った祖父母に対して手を差し伸べ、資料を届け、映画に誘ってくれたのかもしれません。もしくはこのひとは実はひとではないのかもしれません。人々の生活をサポートする機械かもしれません。そして、もちろん、そのひとは好意を抱いているのかもしれません……が、それが100%とは限りません。結局のところどうしたって、そのひとの気持ちを正確に把握することはできませんし、もしかしたらそのひと自身だって自分の気持ちを正確には捉え切れていないかもしれません。むしろ、そこがポイントと言ってもいいかもしれません。このひとは自分のことをどう思っているのか、もしかしたら好いてくれているのか、それとも誰に対しても親切なひとなのか、だとしたらその親切を自分にだけ向けるようにしなくてはならない、どうすればこのひとの好意を独り占めできるだろうか、なんとかしてこのひとに自分はこのひとのことが好きなのだと思わせることができないだろうか。
 話が逸れましたが、誰かの気持ちを汲み取ることは、その一方で自分の考えを押し付けることにも等しいように思います。ふしぎなものですね。受けとろうとしているつもりが、実は押し付けているだなんて*6 *7 *8
 話を戻しましょう。いかにして著者の気持ちを汲み取るか、その手段のひとつとして秋山はレーベルを考慮しています。現実には不可能であるかもしれませんが、基本的にあらゆる小説家は、自分の好きな出版社/レーベルから作品を出す権利を有しています。複数の出版社から声が掛かっている人気作家なら、いつだってその権利を持っていますし、そうでない新人作家だって、デビューする前、つまりどの新人賞に応募するかの段階において出版社/レーベルを選ぶことができるのです*9。なかには大人の事情で出版社やレーベルが決まってしまうことがあるかもしれません。また、ライトノベルレーベルに作品を応募したつもりがハードカバーで出版されてしまうということもあるかもしれませんし、いままでにだってあったかもしれません。でも、それだって著者の選択であり責任と言えないこともないでしょう。そうされる可能性のある出版社に原稿を応募してしまったのは、他の誰でもないそのひと自身なのですから*10。けれど、そういった一部の例外を除いて、基本的にライトノベルレーベルから作品が刊行されることは合意のうえと言うか、作者の意思と言えます。ライトノベル読者に読まれたいと思い、ライトノベルとして書き、ライトノベルとして出版する。いま市場に出回っているライトノベル作品の9割は、作者の意思としてあると思います、あくまで主観ではありますが。
 それでは、そうでない作品はどうでしょうか*11。そういった出版社やレーベルから刊行されている作品にも当然、作者の意思の結果としてあるはずです。つまり、ミステリ読みに読まれたいと思い、ミステリとして書き、ミステリとして出版する。SF読みに読まれたいと思い、SFとして書き、SFとして出版する。そういった作品はいかにカテゴライズされるべきでしょうか。確かに作者がどれほどミステリ読みに読まれたいと思っていても、どれほどミステリとして書いたとしても、結果としてミステリとは言いがたい代物になってしまう可能性はあります。しかし、だからと言ってその作品を「これはミステリではない」であるとか「これはSFではない」と否定するのはいかがなものかと思います。もちろん、読者には読む自由が与えられており、読んだ結果として何を思ったか、それを口にする言論の自由が与えられています。けれど、そういった自由が与えられているからと言って、勝手気ままに言ったり書いたりしていいわけではありません。失礼で不用意な発言は反感を招きかねません。発言には責任を持つのが格好いいと思います。
 まあ、そういった感じの事情から、秋山は可能な限り、作者の気持ちを汲み取って、その作品をカテゴライズしたいと考えています。ミステリとして書いたのであればミステリとして受けとりたいですし、SFとして書かれたのであればSFとして受けとりたいです。しかし、繰り返しになりますが、ひとはどう足掻いても他のひとの気持ちを正確に把握することは不可能です。だから言動からそれを見抜くしかない、見抜こうと努力するしかないわけです。で、秋山の場合、その手段のひとつが、発行されるときのかたちなのです。「ライトノベルレーベルから刊行されたということは、おそらくこの作者は、この作品をライトノベルとして世に出したのだろう」と。
 したがって、

 秋山氏の判断基準は「ある作品の著者がその作品をライトノベルだと思っているというふうに判断するのは、その作品がライトノベルレーベルから出ている場合であり、かつ、その場合に限る」ということになるだろう。

 この認識は遠く、

 それとも、ある作品がライトノベルレーベルから出ているという事実は、他のより強い根拠によって覆されない限りにおいて、その作品の著者がその作品をライトノベルだと思っているという事実の証拠となる*7ということなのだろうか。

 こちらこそが近しいと言えるでしょう。
 そろそろ文章を書くのがいやになってきたので、今日はここまでにします。

*1:もしかしたらイタリックおよび脚注という言葉は不適切かもしれません、斜体やフットノートという表現の方が正しいかもしれません。けれどここでは秋山の普段の習慣に合わせて、イタリックと脚注としたいと思います

*2:もしくは斜体。

*3:もしくはフットノート。

*4:とは言え、そう思っているのはあくまで秋山なので、もしかしたら上記引用箇所だけでも理解できるかもしれません。一体、何をして理解したかとするのかはまた別の問題ですけれども。

*5:ゴゴゴゴゴ!

*6:定義論それ自体についても言えることですね。どこからどこまでがライトノベルなのかと受けとっているつもりが、いつの間にかここからここまでがライトノベルという尺を押し付けてしまうことがあります。

*7:せかいにとってよくないかもしれませんが、それでもやっぱり十人十色の考え方があっていいと思います。これはライトノベルではない、これもライトノベルではないなんて議論は不毛に感じます。

*8:ライトノベルの最大公約数を求めたり、広義のライトノベルを探していく方がずっと楽しそうです。

*9:ここらへんの話は、2日に書いたエントリにも関わってきますね。

*10:とは言え、100%そのひとの責任とも言えないと思います。不可抗力ということもありますし。なので、ここでは「責任の半分」という表現をしてみましょうか。たとえば萌えイラストの表紙のライトノベルを出したかったけれど、佳作だったので絵師に恵まれなかったとします。この場合、責任の半分は、大賞を取れなかった作家にありますけれど、もう半分は良絵師を持っていない編集部にあると言えます。

*11:つまり、ライトノベルレーベルから刊行されていない作品です