・他者なしに充足する社会
欲求とは特定の対象を持ち、それとの関係で満たされる渇望。つまり、腹が減る→パンを食う→食欲が満たされる。
欲望とは望む対象が与えられても、欠乏が満たされない渇望。つまり、彼女欲しい→彼女できた→彼女見せびらかしたい→他の彼女欲しい→彼女できた→以下無限ループ。
かつては社会的コミュニケーションなしには得られなかった食事や性的パートナが今では、ファーストフードや性産業で手に入る。
・オタクたちの「動物的」な消費行動
『デ・ジ・キャラット』に萌え、『コズミック』を読み、『Air』に泣くオタクたちの消費行動は、動物的と言える。――これは謎だな。前述の例で言えば、ファーストフードで食事したり、性産業の産物を甘受している人間すべてが動物化していると言える。なんでここでオタクの話に戻すのか不可解だ。
・オタクたちの保守的なセクシュアリティ
斎藤環氏の提唱したオタク・セクシュアリティなどの解説。
・虚構の時代から動物の時代へ
45〜70年:理想の時代。70〜95年:虚構の時代。95〜XX年:動物の時代。
売春するコギャルは知り合いは多いが、親友は少ない。
・コギャルとオタクの類似性
動物化したポストモダンの表がコギャル、裏がオタク。
・オタクたちの社交性
情報交換が目的。掲示板やチャット、オフ会、そして携帯電話、不登校、引き篭もり。それらは「降りる」自由を持っている。オタクたちに限らず、90年代においては社交性が要求されていない。
・大きな共感の存在しない社会
「大きな物語」は消え、そこにあるのがデータベースになった今、生きる意味を教えてくれるのは「小さな物語」にしかない。それは、ハリウッド映画やテクノ・ミュージックを消費するのも同じ。
しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、誰の生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の隔離的な共存。現代思想風の用語を使って表現すれば、これが、本章の第二の問い、「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、ではそこで人間性はどうなってしまうのか」という疑問に対する、現時点での筆者の答えである。
ここには氏の魂が込められていそうだ、噛み締める価値のある、味わい一節だと思う。